作成者別アーカイブ: 駒形真幸

終戦(2)

まもなく、師団はサイゴン周辺に集結を命じられ、我々も馬を連れて、近くの病馬廠へ移動することになった。今度は徒歩で旅を続けた。折り悪く雨に降られ、途中の行軍はかなり難行だったが、なにしろ戦争はもう終わったと言う安心感で、むしろ楽しい旅だった。雌馬の中に、放牧中に妊娠していたのがいたが、行軍で無理をしたのか、途中で流産した。もの言わぬだけに、どの馬がお産をしたのかさえわからずじまいだった。

病馬廠に馬を引き渡すとすぐに、各々原隊に復帰を命ぜられ、各隊から迎えが来て、それぞれの本隊へと去っていった。我々の防疫給水部も、サイゴン市内の仮兵舎に、市内消毒のための部隊を派遣していたので、とりあえずそこへ連れていかれた。そこの長(新任の将校)に申告して、すぐにトラックに便乗し、サイゴン市街の本隊へ帰った。そこは戸数五、六戸しかない部隊で、馬部隊は例によって、少し離れたところに別々に宿舎を貰って、寺のような現地人の建物で暮らした。ウドンの町にいるとき、本隊を離れて病馬廠に移ってから三、四ケ月になったと思うが、やはり自分の隊はいいと思った。ビルマで西と東になっていた荻野伍長等も既に合流していたので、それこそ一年ぶりで全部揃ったわけだ。しかし、ビルマ戦線で、空襲でやられた兵隊も一人か二人いたので、やはり物淋しい気分は漂っていた。

ここには、留守番みたいな老夫婦と、貰い子らしい二人の可愛らしい男の子がいて、部隊の炊事を手伝ったり、残飯を持っていったりして生活していた。その他にこれという収入もなさそうなのに、お婆さんが毎晩焼酎を飲んでいるところをみると、貰い子の養育料が入るらしい。ここにはまだ、馬が十数等いて、馬車を曳かせて草刈りに行ったり、町へ買物に使ったりして重宝していた。

終戦(1)

 そんな日がかなり続いて、八月十六日か十七日ごろ、重要な訓示があるというので、突然全員集合を命ぜられ、何ごとならんと指定場所へ集まると、部隊本部から将校が来ていて、日本は連合国の発表したポツダム宣言(休戦に関する提案)を受諾することに決した。しかし、別命あるまで、各員は戦闘体制をとかず、現在地で勤務するようにというのだった。訓話の表面だけだと、戦争に負けたのではなくて
、休戦の申入れを受諾したということだが、今までの戦況から言って、日本は負けたのだろうという考えは殆どすべての兵が持ったらしく、みんなガックリした表情になっていた。それから後は、遅くまで兵舎のあっちこっちでボソボソ夜通し話が続けられていた。もう戦争は終わった。だけど、我々の運命は一体どうなるのだろうか、内地の様子はどうかなど、次々と不安が広がっていった。

 その翌日は、まるで世界が変わったような気がした。しかし、軍律だけは乱す者もなく、無気力ながら仕事は続けられた。終戦の報は、世界中をびっくりさせたはずだが、そのあと町へ出てみると、町民は日本兵を馬鹿にするどころか、前より親しみ深くなり、どうして日本は降参をしたのかと、漢字の書ける青年から、詰問的な筆談をかけられて、面食らったことさえあった。

仏領印度支那駐屯(四)

昭和二十年五月、行動を起こし、全部の病馬をダルマ船に積み込んで、ポンポン船に曳かせて、メコンの大河を逆行するという、極めて大陸的な旅行だった。

今度のは、ビルマ大陸での汽車旅行とは反対に、昼間だけ船を走らせて、大昔から大河メコンを上下する河船の船付場と宿場町が至る所にあって、そこは飲み屋と淫売宿がつきものだ。ある街では、兵隊服での外出は禁じられていることから、白い作業衣の上着だけをひっかけて飛び出し、街の女たちを冷やかしていた。ところが、憲兵の巡回に遭って、肝を冷したが、女たちがぐるりと我々を取り巻いてくれ、その真ん中にしゃがんで、危うく難を免れたこともあった。四、五日もかかって、大メコンを逆行して移った先は、まったく人里を離れた高原の野原で、そこに先行した設営隊が、現地人を使って、丸太と二ッパ椰子で厩舎と兵舎を建ててあった。船から揚げた馬は、乗馬隊と徒歩隊に別れて誘導し、この新しい牧草地へ収容した。

ここでの生活は、まるでソロモン群島へ逆戻りしたと錯覚を起こすような活気もなければ、原住民の顔も殆ど見られない殺風景なものだった。そこで幾日か過ぎたころ、門脇獣医中尉が、街から華やかな安南娘を五、六人連れてきて、ひどく兵隊たちを興奮させたが、どうしたわけか慰安所設置はお流れにになって、女たちはその翌日、兵隊たちのあっけにとられた顔を尻目に、卦嬌声を残して去っていった。まったく罪作りであった。そのかわり、一日交替で船を仕立て、数キロ離れた街へ外出させることを許し、早速実設に移した。ところがそれがまた、すごいジャングルの中の急流を、両岸の樹木や葉に掴まりながら、メコンの支流に出て、更に数時間もかかっていく。メコンの船付場の名もない小さな町だった。それでも飲み屋と女を置いた家が数件あって、日頃のジャングル生活の憂さを晴らすには充分だった。それには金がいる。仏印政府の金はなかなか手にはいらない。結局、配給の煙草や靴下などを売るわけだ。煙草はかなり配給されたが、いくらもすわないで、それを十個ほどと、ジャワ島で買ったスイス製の下げ時計を売ったりして、一日遊んで兵舎へ戻ったこともあった。

この付近には、時々虎も出没するというので、恐れられていたが、ついぞ足跡も糞も見ずにしまった。
しかし、町に出るときなど、河岸の茂みに野生の孔雀やペリカンをよく見かけたし、野雉はどこにもいた。また、沼地には、巨大な泥貝がいたし、親指大のヒルが、ヒラヒラと泳ぎ回って不気味だった。給与は案外よく、野菜などもまずいが豊富に食わせてくれた。こんな山の中だから、毎日が平穏無事だった。ともすると、戦争のことなど忘れてしまいそうだが、内地では、連日大空襲を受けて、東京など焼け野原になったそうだ、などという噂と、戦争は八月には終わるらしいということが、誰からともなく言いふらされた。もし負けたらとても内地へなど帰れないから、武器を持って逃走し、山賊になろうかなどと冗談半分に言い合ったりしていたが、誰でも内心はかすかな不安を持っている様だった。

仏領印度支那駐屯(三)

 日曜日には、トラックでプノンペンの町まで遊びに連れていってもらうのだが、そこはカンボチヤ国王のいる首都だけに、なかなか立派な町で、軍の慰安所もあるし、近くに軍の飛行場もあって、ビルマ戦線ではもう見られなくなった日の丸の鮮やかな双発機が、威勢よく飛び交っていた。

 この辺の住民は、外国人と同じような顔立ちだが、男女ともに坊主刈りで、衣類は黒っぽい粗末なもの、しかも素足が常習ときているので、程度は低いといわなければなるまい。現地の雑役夫を雇っておいたが、彼らは簡単に炊事道具だけを天秤棒で担いできて、忽ち小屋を建て、そこで寝泊りしている。実に安上がりである。朝は細君が、枡の壷のようなものを持って出ていき、近くの沼から鰻の頭を曳きづって来て、これを鉈で料理して朝飯である。常食は米だが箸を使わず手つかみだ。しかし、支那系の人々は、箸を使い、漢字を解するので、いくらか物の分かりそうな人物をつかまえて筆談すれば、大抵のことは通じる。

 放牧場になっている野原の中に貯水池があって、東屋風の建物があり、そこが旅行者の休み場所となっているらしく、誰でも自由にはいって休むことが出来るようになっていた。そして、その小屋の壁面には、漢字で、「この地方は水が少なく、旅行者が炎天下に非常な苦しみをなめていたが、某と言う偉人が私財を投じて貯水池を掘り、この家を建てたので、以後、おおいに旅行者は助かっている」という意味のことが書いてあった。それを見て、少年時代、郷里の行去塚の井戸の由来を記した碑文がこれとほぼ同じ文体で、同じことが書いてあったことを思い出して懐かしかった。

 この原野に来てしばらくしてから、古い兵隊たちが独断で、禁断の雄馬と雌とを共に放牧したので、雄同士でものすごい決闘が始まり、収拾のつかないことになったことがある。それはまったく想像以上のもので、蹴り合い、噛み合いから果ては後ろ足で立ち上がって殴り合いまでやり、弱い奴は眼球が飛び出して、片目になったり、足の自由がきかなかったり、散々な目に合わされた上、すごすごと馬群から去っていくのだ。

 こうして残った威勢のいいのが何頭かで、全部の雌を分けて支配すると、もう闘争は起こらない。一度血で血を洗う決闘の後、雄同士の実力が判ってしまうと、それに応じた勢力分野が決まり、一頭に雌数頭のグループが幾つか出来て、後は平穏な牧場風景になった。
 こうして平穏無事な牧場生活は、至極のんびり経過していたが、一つ悪いことには、4・5人の兵隊達が殆ど毎晩徹夜でオイチョカブと呼ばれるバクチをやっていることだ。わずかしか貰わない給料をやったり、取ったりしても仕方がないと思われるが、やっている本人は、無中なのだから、他からの警告を聞こうともしない。これは何もこの部隊だけのことではなく、おそらく全軍の至る所で行なわれている悪事の一つだろう。俺は幸いにしてまだ一回も仲間にはいったことがなかったので、食わず嫌いで通した。こんな閑静な生活を送っている間にも、戦局はいよいよ我が方に不利に向かっており、更にここからメコン河をのぼって、安南の国の丘陵地帯に師団は立てこもることになった。

仏領印度支那駐屯(二)

 このころになると、南太平洋では、制海空権を敵に取られ、フィリピン群島のレイテ島に米軍が上陸し、マリアナ群島の基地から、B二十九の大編隊が直接、東京その他、内地の主要都市を空襲していることが敵方の宣伝でほぼ明らかになった。そして、

「今年の八月には、戦争は終わる。」

ということが、まことしやかに語り継がれるようになった。この状況で、戦争が終わるとすれば日本が負けることではないか、そんなことがあってたまるものか、と心には思ったが、なぜかそれが本当のことになりそうな気がした。

 こんなときだけに、師団は最後までここで抵抗するという段取りらしく、各部隊の病気や栄養障害で弱っている馬を病馬廠(ビョウマショウ)にあつめて、健康馬にするという至極のんびりした計画が始まり、我隊からも、二頭ばかり現地徴発の馬をそこにまわすことになった。その付き添いに住安君が行くことになったが、どうしたわけか、急に俺のところへお鉢が回ってきた。なんだか部隊の暖かい環境から、追い出されるようで面白くなかったが、今まで随分危うい役割を免れているので、今度くらいは仕方が無かろうと思った。

 病馬廠という部隊は、二、三人の獣医と下士官に、兵が十数人くらいのごく小さい隊で、カンボジアの首都プノンペンの近くの原野に、バラックの厩舎を建て、病気の馬を収容していたが、その中には、病気どころかものすごく張り切った、しかも去勢していない本物の牡馬が十数頭いて、きわめて賑やかだった。兵隊に対しては、まるで猫のようにおとなしいが、さて馬同士となると、猛獣のような凄まじさだ。馬房のしきりには、厚さ二寸もある板木を鎖で天井から吊るしておいて、両方から蹴飛ばしても、動揺するだけで割れないという仕掛けにしてあった。小さいながら、馬の後ろ足で力任せに蹴るのだから、どんな丈夫のものでも固定してあったら、必ず折れるか、割れるか、さもなくば足が折れるだろう。これを他の雌馬や去勢馬と一緒に放牧したら、大変なことになるだろうというので、放牧は、雌と去勢馬だけにした。

ここでの仕事は、放牧した馬の監視と草刈りくらいのもので、各部隊からの寄り合い世帯だが、思ったよりは愉快だった。十六連隊からの阿部上等兵、野砲からの沼上兵長、衛生隊の広瀬上等兵などが印象深い。

仏領印度支那駐屯(一)

 間もなくまた、移動の命令が出て、師団はカンボジア国の首都プノンペンの郊外に移ることになり、再びバンコク駅から列車に乗って北上し、メコン川を渡し舟で越えて、ウドンという街に着いた。カンボジアは、タイ国よりさらに民度の低い国で、住民の殆どが坊主頭で、素足に黒っぽいシャツに股引きといった服装だ。主食は米が豊富に取れるので、不自由はなさそうだが、電灯も無く、例外なく竹とニッパ椰子でできた掘っ立て小屋に住んでいた。しかし、お寺だけは立派で、どんな小さな部落でも必ずといっていいほどあって、柿色の衣を纏った、あまり上品とは思えない坊さんがうようよしていた。

 戦局はますます不利になり、今はいかにして敵の侵入を防ぐかで、作戦参謀も頭がいっぱいというところらしく、我々非戦闘部隊にまで、対戦車肉迫攻撃演習を強行させられた。それは、骨箱とあだ名された八寸立方くらいの木箱の中に、爆薬を装填し、これに紐がついていて、これを抱えて爆進してく敵戦車の前に飛び出して伏せ、自分の体が戦車の下敷きになったとき、その紐を引けば中の爆薬が炸裂して、敵戦車を喀座させるというまったく惨めな戦法であった。そのころ敵の主力をなすM三、M四などと称する戦車は、装甲がものすごく厚く、八サンチ野砲の直撃弾でもその前面の鉄甲を破ることができないので、その下に潜って、一番甲の薄い下部を割るより他にやっつける手は無いというのだ。ところが、その爆薬の発火装置というのが、爆薬の中に燐寸の箱と燐寸棒が入っていて、その棒に紐を付けて外に出しておき、それを強く引っ張れば燐寸が擦れて、爆発するというまさに前世紀的な新型兵器と聞かされては、本気で演習するのも馬鹿馬鹿しくなってしまった。誰の考案か知らないが、これを抱えて飛び出せば、人間一人は必ず死ぬ。敵戦車をやっつけるなどは、百に一つも成功はおぼつかないものだ。兵士の命など、まるで虫ケラ同様に扱われているのだ。

 もう一つ、新兵器と称して渡されたものに、小銃の先に直径一寸五部くらいの筒を取り付けて、これに手榴弾を入れて空砲を発射し、三十メートルくらい先へ飛ばすというものだ。これなら確かに手で投げるよりは遠距離まで飛ばせることは確かだが、銃一丁に一ケずつ渡ったのではなく、十人に一つも渡らないのだから、大してものの役に立たない。これを運悪く持たされたが、どうしても使用するのか、ろくに操法も知らずにいると、たまたま兵器検査のときに、操作してみろといわれ、さっぱり出来なくて、とんだ赤恥をかかされたことがあった。

雲南作戦(十三)

 その日の夕方には代わりの機関車が迎えに来て、うまくそこを切り抜けることはできたが、その先では、鉄橋が落とされていて渡れないので、川向こうまで行軍ということになった。やっと走り出したと思ったら、今度はシッタン川の鉄橋が爆撃でやられて渡れない。それで仕方なく列車から着物や馬を下ろして行軍となった。やはり、昼はジャングル内の部落に隠れて夜だけ歩くのだが、雨の心配は無く、この辺りには、地上の敵は全然いないことが分かったので、みんな馬の手綱を伸ばして、鼻歌混じりで、至極のんびりした旅をした。

 シッタンの渡河は、友軍船舶兵の渡し舟で、人馬車両まで輸送するから、大勢の現地人を使って、賑やかにやった。ここでも男女とも、物を頭に載せて運ぶのだが、男が四人がかりで女の頭に大きな荷物を載せてやるとこれを軽々と運ぶ。これには驚いた。

 この作業の真っ最中に、敵機の来週で大慌てだったが、タイや仏印あたりの遠距離爆撃の帰りらしく、高高度の編隊のまま通過したので助かった。川を渡ったらまた、列車に乗せられてビルマ東部の大河サルライン河まで行き、ここでまた列車を捨てて渡し舟に乗り、モールメンにでた。この辺りはビルマの玄関口に当たり、鉄道と海上の両面からの補給基地なので、ごった返していた。渡し舟は筏をポンポン船に引かせていくが、こんなところに一機でも敵機が来襲したら、どんなことになるのだろうと、まったく尻がむずむずする思いだった。ここでも幸運にも敵襲を受けることなく、ひとまず安全地帯へ後退した感じでホッとした。ここからは日本軍の敷いた鉄道で、機関車も貨車も日本製なので、まるで内地へ戻ったような錯覚に陥りそうだった。やはり、昼間は敵機を避けてジャングルに隠れ、夜だけ走り、タイに入るまで二日程かかってしまった。一年前に通ったところを引き上げたが、夜だけしか走らないので、カンチャナブリーの街もどんなだったかさっぱり分からず、夜明けにバンコックの貨物駅へ到着した。ここはまた、ビルマとは違った暑さで、何もかも焼け付きそうだ。その暑くて埃っぽい街を、馬の背にゴタゴタした荷物をくくり付けて進む我々の行列は、まるで避難民のような哀れな姿で、到底軍隊などとはいえないものだった。

 バンコックの町は、戦禍に荒らされた跡は殆ど無く、商品なども案外豊富にあったが、何しろビルマから来たばかりでは金も使えず、物交するほどの物も持っていないので、どうすることもできず、店頭に並んだ果物やお菓子を恨めしげに横目でにらんで通るだけだった。市内の空兵舎に一旦落ち着いたが、じきに模様が変わって、市街地から、かなり離れたニッパ椰子の仮兵舎に草履を脱いだ。この辺りは民家もあまり無く、まったく何の楽しみも無い生活だった。そのうえ、夜になると決まってバンコック市内の鉄道工場や港に対する敵の空襲があり、その都度馬を引き出して、兵舎からかなり離れた原っぱに逃げた。幸いここでも、直接空襲を受けたことは無かったが、そう遠くないところにある鉄道工場は、毎夜のようにやられ、超低空から焼夷弾を落としていく敵機の鈍い銀色の胴体は、不気味に見えた。

雲南作戦(十二)

 その後、残された本体も、長くはそこにとどまらず、程なく仏印方面軍に編入されて、その地域の守備に当たるという幸運な布令が来た。今度は旅程が長いので、全員が汽車輸送と決まった。すでに車両は残り少なになっているので、部隊の方で手を回し、輸送参謀に何か贈り物をしたとかで、案外楽に乗れるだけの貨車の割り当てを受けることができた。しかし、我々騎馬隊は、馬と一緒に貨車に載せられて、馬首の下で食事をし、わらとまみれて寝るのだ。荷物扱いでなく、馬並みのお客ということになった。

 列車といっても、昼間は敵機の襲撃があるので走れず、夜だけ走って、夜が明けるとまず次の駅へついて、車両を疎開させ、人間と馬だけが降車し、近くのジャングルに入って、飯を炊いて食い、昼寝をし、夕暮れにまた車に乗り込むというきわめてのんびりした旅だった。

 ある朝、少々時間が遅れて、目的地の駅に入る前にすっかり夜が明けてしまった。そのため、敵哨戒機に見つかって銃撃を受けたことがあった。我々は貨車だから扉を閉めていると、夜が明けても中は暗いから、いい気持ちで寝ていると、機関車に乗っていた現地人の助手が大声で、

「飛行機、飛行機。」

 と怒鳴るので、驚いて貨車から飛び出して乾ききっている田圃(タンボ)を蜘蛛の子を散らすように逃げた。どこまで逃げても田圃では遮蔽物も無い。しかし、狙われるのは列車だから一歩でも遠ざかることが被弾から免れるただひとつの途の訳だ。二百メートルくらいは転げるように夢中で走って、畦(アゼ)の陰に伏せ、恐る恐る辺りを見回すと、遠く、近く、転々と伏せている兵の姿が見える。そして遥か西の空に、初めて見る敵ボーイングB二十九と思われる四発大型機が一機現われ、悠々と頭上を通過する。するとまた一機という具合に、一定の間隔を置いて、まるで我々など眼中に無いといった落ち着き払った姿で飛び去っていくのだ。

 こんなことならあわてて飛び降りることも無かったといささか拍子抜けの態でいると、何ぞ図らん、敵機はまるで別の方向から地面すれすれの超低空で現われ、あっという間に、停車している列車を拝み撃ち機関砲を浴びせて飛び去った。機関車は湯気を白く吐き出し、使い物にならなくなってしまった。こうしておいて、また引き返して爆弾でも見舞われてはやりきれないと思ったが、幸いにそれっきり姿を見せなかった。機関車をやられてはどうにもならないので、ひとまず全員がその近くの部落に退避して、寝てしまった。

雲南作戦(十一)

 昭和二十人の元旦は、この宿舎で迎えた。もう三ヶ月以上も一滴の雨も降らず、地上のあらゆる生物が生気を失ったように埃にまみれているし、戦局はいよいよ我方に不利らしく、たまに軍司令部から配布される官報、昭南辺りで発行される邦字紙にも、南太平洋ではラバウルの近くまで敵軍が侵入し、印緬国境のインパール作戦は失敗して、我軍は後退を余儀なくされているらしいということだった。だというのに、ここの正月は極めてのんびりしたものだった。まず、元旦の早朝に演習の出動の命令があり、初めのうちは本物と思わせるような緊迫感があったが、やがて演習と分かり、終わってからお正月三日間は「朝酒、昼酒、晩酒よし。」という部隊長の許しが出て、それこそ部隊を上げて乱恥気騒ぎをやり、威勢の良い連中は樽御輿を作って担ぎ出し、裸身でワッショ、ワッショとお祭り騒ぎをやったりした。酒は軍から配給されるほかに、現地人から軍票で結構手に入った。酒が足りるとその後は女というのが決まった男の欲望だが、ここではどうにもその方は工面がつかないようだった。自動車をとばして、トングーの街に行くという手もあったが、もう自動車行軍も危険で、うっかり出て行けない状態だった。敵機の目が絶えず光っていて、この宿舎にも時折敵哨戒機の姿が見えたが、幸いにも爆撃も銃撃も無かった。

 そんな呑気な日も長く続かなかった。お正月も過ぎて間もなく、敵有力部隊が「メイクテラ」というビルマ北部の要地へ落下傘で降下し、空中補給により、次第に勢力を増強していた。イワラジ川を挟んで、地上から押し寄せてくる敵大部隊と対峙している友軍の後方を、この落下傘部隊が脅かすにいたったので、我第二師団の一部はそっちへ急派されることになった。歩兵第十六連隊を主力として、各特科部隊の一部がこれに従うことになったので、我部隊からも、広瀬大尉を長とする小隊を編成した。これには騎馬部隊も一部さかれるわけだが、今回も幸運なことにその編成から外れた。

 いよいよ今日の夕方には出発という日は、部隊を上げての送別の宴を張ったが、戦局苛烈を極めるとき、前線へバックして行く広瀬隊の面々は、さすがに沈みがちだった。それも道理、今度は全滅を覚悟しての大作戦に参加するのだ。広瀬本隊は自動車で行くが、それにつけられた荻野伍長以下の騎馬分隊は、その日の朝、宿舎を発っていった。出発間際に、衛生兵の井上上等兵がやけ酒を飲んで、べろんべろんに酔っ払ってしまって歩けそうもないほどくだを巻き、有沢一等兵も姿が見えないなど一騒ぎあったが、結局みんな揃って出て行った。その後で、重要な連絡事項を忘れたということで、伝令を命ぜられ、馬で追いかけた。夕暮れの平原をとぼとぼと行く、わずか十数人の騎馬部隊に追いついて、その任務を果たしたが、そのときの彼ら分遣騎馬隊の影の薄い、寂しそうな姿は、今でもはっきりと眼底に残っている。実際のところ、あのときの印象では、再びこの戦友達とまみえる日が来るとは思わなかった。

南雲作戦(十)

 この谷もかれこれ一週間くらいはいたろうか、もう月日もよく覚えていないが、いよいよ後方へ転出する命令が出て、移動と決まった。幸か不幸か下痢と咳で休んだ後が十分に回復していなかったので、自動車に乗って本隊に先行することになった。そして、この前は、敵弾に脅かされながら、暗夜馬を引いて上った道を、今度は自動車に揺られて降りていったが、まだ龍陵を放棄したわけではないらしく、小銃や機関銃を担いで、一歩、一歩絶望的な表情で登ってくる他の部隊の若い兵士の姿は、まったく悲惨な前途が予想されているだけに、悲しかった。

 一ヶ月足らず支那の領土へ足を踏み入れただけで、またもと行った土地を引き返し、ビルマ領に戻って、山の中の部落に一時駐留することになり、その設営隊として自動車で先行したわけだ。その部落は、割合に親日的で、空いている家屋を提供してくれた。ここでは炊事班に加えられて、野菜洗いに川へ出たり、水を汲んだり、まるで女の仕事みたいだった。しかし、食物は腹一杯、しかも美味いものを食べられたから、山での不満は取り戻すことができた。その上、敵機の来襲も無く、まったく戦渦の外に出たようなもので、いたってのんびりしたものだったが、ここも長く留まっていられず、すぐに後方へ転進することになった。この時も運がよく自動車で先行することになった。

 このころはもう、ビルマ全域がすっかり敵の制空権下にあって、昼間の行動は一切禁じられていたので、夜だけ行軍し、ラシヲを通り、メイショウも過ぎて、トングー近くの桐林の中に宿営することになった。ここは前に、日本軍が急造の宿舎を立てて駐留していたが、部落も無く、井戸も無いところで、水には非常に不自由した。山で下痢をしたおかげで、馬部隊の席を外れて、本部要員になったので、今度は松浦中尉の当番を命ぜられた。部隊一の憎まれ将校の当番とは、少々酷すぎると思ったが、馬で苦労するよりはまだましだろうと我慢して勤めた。朝夕の毛布や蚊帳の取り外しから靴磨き、洗濯とまるで女中の仕事である。妻子ある男のやることではない。

 ここへきて、半年振りで郵便物の差出を許された。はがきや手紙をかなり書き、妻や実家へ出す手紙には、この辺りの風景を写生したものなどを入れたのだが、これが最後の便りになったけれども、はがきだけしか届かず、どっちでもいいようなところへは届いて、一番待っている妻や兄のところへは何も行かないという奇妙なことになってしまったことは、復員後にわかった。