作成者別アーカイブ: 駒形真幸

雲南作戦(九)

 そうこうするうちに、いよいよ龍陵を放棄するということになったらしく、我部隊も、山ひとつ隔てた谷へ下がることになり、馬を引いて間道を下りてまた、そこで横穴生活を始めた。幸せなことに、食料だけは不自由しなかった。ひとまず安全地帯らしいところへ下ったという気の緩みからか、下痢を起こして寝込んでしまった。その代わり、龍陵からの荷役には行かずに済んだ。

 ビルマ駐屯地バセインをたってから、一ヶ月も全然体を清めないので、ほとんどの兵が虱に悩まされ始めた。最初のへその辺りが妙にむずかゆいと感じたが、だんだんと全身にわたるようになり、シャツを脱いで、襟の辺りの縫い目を開いてみるとうじゃうじゃと小動物がいた。洗っても取れないが、石の上で叩き落すのが一番良い。幸いに、この谷にはきれいな小川が流れていたので、思う存分水浴することができたし、虱も何回か洗濯して叩き落すうちに退治されてしまった。

 我々はこうして、やや安全地帯に下ってのんびりすることができたが、まだ龍陵周辺の山々には、傷ついて動けない兵士が無数に残っていると聞き、身の引き締まる思いがした。それにしても、将校どもが力水に入れる筈のウイスキーの頭をはねて、酒宴を開いているのを見るとむらむらとして、手榴弾を打ち込んでやりたいような憤りを感じた。日中もほとんど壕の中から一歩も出ず、地蔵様のように座ったきりで、上げ膳据え膳でいた部隊長が、大声で歌を歌ったりしているのを聞くと、思わずそんな気にとらわれるのであった。そんなていたらくであったのが、師団へ出される戦闘詳報には、常に陣頭に立っていたのだから、呆れ果ててしまう。なお笑止千万なことに、山の上に配置した小銃だけの対空監視班が、敵戦闘機を一機撃墜したことになっていた。その監視班にも加わったことがあったが、こっちで一発でも打つと、百発撃ち返されるから、撃つなと言われていた。したがって、木の下に隠れているのが精一杯だったのだが。

雲南作戦(八)

 終日頭上を砲弾が飛び交い、「空を飛ぶのは敵機と決まっている。」と決めているとき、どうした風の吹き回しか、友軍の戦闘機が五機ほど飛んできて、龍陵の向こうにいる敵の陣地を銃撃したことがあった。このときばかりは翼の日の丸が目に滲むほど鮮やかに見え、みんなが狂気のように手を振れば、飛行機も友軍部隊を見て、翼を数回降って、南の空へ消えていった。敵の制空権下の戦場にやってきた残り少なの友軍機に対して、無事に基地まで帰ってくれと密かに祈った。これに勢いを得たのもつかの間のことだった。その後は味方機は一機も見えず、後方からの補給も細々、せっかく我々の前面に進出した野砲四門も、一発も撃たずに退却してしまう始末。また師団戦闘指令所もその日に敵の探知するところとなって、B二十五の大編隊で集中爆撃を受け、これまた退却の余儀なきに至った。そして、その後も敵戦闘機は、頭上を我もの顔に乱舞し小出町出身の野上兵長が、火を吹く自動車からキャブレターを外して、他の故障車に取り付けて脱出し、部隊長に褒められたこともあった。

 戦闘は、日に増し苛烈となり、ふた山、み山を占領していた歩兵部隊も退却してくる始末となり、我々も仮縫帯所どころではなくなって、後方の山の陰に隠れてしまった。そんな悪状況の中でどこから紛れ込んできたのか、若い農婦が怯えて手を合わせてきたので、腹が減っているのだろうというので、飯を与えたが食べもしない。それを大原少尉などが見て、敵のスパイかもしれない、こんなところへ我々がいることが知れたら、また砲弾が飛んでくるから、捕まえておけといったので、誰だったか、形式的に縄で両手を縛ったが、あまり悲しそうでもなく、大人しくしているので、どうやらこれは戦争の大騒ぎで、頭がおかしくなったのだろうということになった。話してやったが、その女が背中に斜めに背負っていた風呂敷包みの中は、生きた赤ん坊だったのには驚いた。

雲南作戦(七)

 輜重部隊の給水活動は、近くの小川から汲んだあまり清潔ともいえない水に、砂糖とウイスキーを少量入れて、一斗入りの水嚢に注水し、これを背負って兵隊が、五、六人一組で、下士官か兵長を長とし、夜間味方陣地に忍び寄り、壕内の兵隊の水筒に水を入れてやるわけだ。俺は三回ほど出た。あるときは横尾兵長を長として、三つ目の山の頂上陣地まで行った。山と山を繋ぐ堀を通って真っ暗な山へ入っていくわけだが、至る所に死体があって、それに躓いたり、踏みつけたり、死臭はといえば鼻をつき、なんともいえない鬼気迫るものだった。やっと山頂に達し、一人ひとりの水筒に満たして回った。だが、そこにも負傷して怯えている兵隊があっちこっちにいたし、何とも手の下しようが無いと呆然として語る軍医の顔も見られた。事実一人づつやっと這い上がってきたこの陣地から、負傷で動けないものをおろすことは、不可能に近いことなのだ。その帰りに、迫撃砲の至近弾を食らって、爆風を顔に受け、ひっくり返る目にあったが、幸いに傷を負った者も無く、逃げ帰った。

 またあるときは、友軍守備部隊の既に撤退した龍陵の倉庫から、乾パンや糠味噌を夜間運び出す使役に借り出された。鼻をつままれてもわからないほど真っ暗な泥んこ道を通って、荷物を運ぶ苦労は、並大抵でなく、何度も転がって全身泥まみれになって、やっと公道上で待つ輜重隊の自動車に積み込む。一人三回づつとなっていたのを一回でやめて逃げ帰ってしまった。それが自分だけの横着で辞めたのではなく、班長の命令で逃げるのだから面白いものだ。山頂の陣地で敵と相対し、砲台にさらされている戦闘部隊の連中、ことさらに負傷して動けず、泣いている同胞のことを思えば、こんな怠慢はとても許されないわけだが、戦場とは、そんな殊勝な考えなど吹き飛ばすほどに惨憺たるものなのだ。その翌日もまた、荷役を命ぜられたが、体が悪いといって断ってしまった。この使役でも、敵の流弾に当たって星野という初年兵が死んだ。

 ラングーンから苦労して連れてきた馬は、何の役にも立たなかった。村はずれの草地につなぎっぱなしにして水もろくろく与えなかったので、とうとう俺の馬は疝痛(センツウ)を起こして死んでしまった。わずかの間だったが、自分で扱っていた馬に死なれたときは思わず泣けてしまった。自分の怠慢から、この物言わぬ戦友を殺したという良心の呵責に数日間悩まされた。

雲南作戦(六)

 この日、前線に進出していた舞台本部から、石井兵長が連絡に来た。そのときの話では、師団の平松参謀が前線視察の途中、友軍の砲弾の照準を謝ったため、彼のすぐ近くで炸裂した結果、戦死したということだった。しかし、わが軍は、龍陵を見下ろす敵の陣地をひと山、ふた山、み山と占領し、篭城軍を救出することに成功したらしいという話もした。

 それからまた大急ぎで装具を整えて、昨夜下ってきた通りをまた前線に向かって進んだ。進むにつれて、道路の脇や山腹の壕に、敵味方の死体がゴロゴロしていた。中にはまだ十五、六才くらいかと思われる敵の少年兵の死体が衣類を剥ぎ取られ、顔は雨に打たれていた。またわけのわからないうわごとを口走っている味方の、負傷した痛ましい姿など、とても正視できない情景もあった。前夜、我々が休憩していた切り通しのすぐ近くで、惨憺たる戦闘が行われていたのだ。

 本体は、龍陵盆地を見下ろす小高い山の上に位置していた。近くに曲射砲の陣地があって、そこの将校がいうには、砲はあっても小銃が一丁も無いから、もし敵襲を受けたらどうにも処置なしだから、そのときはよろしく頼むということだった。しかし、我々とて騎銃がわずかばかりで、他人の応援どころではない筈だった。すぐにその山を降りて、龍陵盆地に進出して仮縫帯所と給水基地を設営した。そこは戸数十戸あまりの部落で、一戸だけ土塀を巡らしたやや上等の家があった。そこに縫包所をおき、我々市輜重隊は、その部落の先端とも言うべき農家を宿舎として、占領した「山」で頑張っている戦闘部隊に、力水と称してウイスキーと砂糖の入った水を補給してやることになった。この辺りは田があって、稲はもうかなり実っていたはずだったが、無残にも馬糧に刈り取られてしまい、家には何者も残さず荒らされていた。先に通過した友軍部隊か、それとも敵部隊が撤退するときの仕業か、どっちにしろ戦場となった部落は、実に哀れな姿をさらしていた。

 またここは、友軍砲兵陣地の前面に出ているので、十五サンチ流弾がシュルシュルという緩やかな唸りを立てて龍陵の向こう側の敵陣に飛んでいった。しかし、残念ながら弾薬の補給が少ないため、一門につき何発と配給されるためを大切に撃っているのだというだけに、すぐ砲撃をやめてしまうのだ。これに引き換えて敵さんの方は、朝から晩まで明るい間は絶え間なく我方の陣地を撃ってくる。したがって、我隊の一切の行動は夜間に限られ、昼間は一歩も外へ出られない状況だった。

 ある日の夕方、砲撃もやんだと安心して、部隊本部で夕食の支度に取り掛かったら、一発直撃を喰らい、倉田兵長、安部伍長即死、小柳、柳沢に上等兵負傷という大損害を受けてしまった。それで恐れをなして、そこから少し離れた崖の陰に穴を掘って入っていたが、またまたそこにも一発直撃が来て、経見上等兵が即死するという被害を受けた。それでも我方はじわじわと前進して、我々のすぐ前に野砲が四門ほど進出し、師団の戦闘指令所がさらに前面の部落に前進した。仮縫帯所には毎夜何人かの負傷兵が担架で収容され来たが、応急手当を加えた上で後方へ自動車で下げられていった。中には収容されて気が緩むのか、痛い、痛いと手放しで泣き喚く兵隊もいた。

雲南作戦(五)

 こんなことがあって、まったく無我夢中で退却し、どうやら山一つ隔てた安全地帯へ来た頃、夜はほのぼのと明けてきた。明るくなってみると、この公路は山々の間を縫うように蛇行しながら、延々と続き、遥か目の下まで白く見えていた。この道路を両面から狙い撃ちする位置に敵の陣地が無数にあるわけだ。これを歩兵部隊が一つ一つ潰して進んでいるわけだが、最も近い堅塁、小松山陣地はまだ戦闘中で、すぐ目の下によく見えた。

 この付近の山は、日本内地の山のように、尾根続きの山脈をなしてるのではなく、一つ一つが独立して双子のように並んでいた。その中でひときわ高く、丸い頭をのぞかせているのが小松山で、頂上に砲座があり、その下を幾重にも鉄条網が張り巡らされている。その下に、友軍攻撃隊が取り付いているらしく、白い銃煙がパッパッと吹き出すのがよく見えた。また、手前の山にある友軍重砲陣地から打ち出す十五サンチ流弾が、山頂で炸裂し、ものすごい土煙を上げていた。一方的の砲兵陣地からは、麓に取り付いている友軍攻撃隊に砲撃が加えられ、これまた盛んに土煙を吹いている。

 こうして高いところから見下ろしていると、演習を見ているような錯覚を起こすが、実際にはその一発毎に何人かの尊い人命が損なわれているのかもしれないのだ。それにこっちもいつまでもこの光景を見ているわけにはいかない。本当の安全地帯へ引き上げるには、さらに敵の射程にさらされた山の斜面を通過しなければならなかった。そこでまた一人ずつこの危険地帯を通ることになったが、今度は明るかったのでいっそう恐ろしさが増し、ともすると足がすくむような恐怖に襲われた。しかし、どうやら全員逃げおおせることが出来た。そして、丸一日何も食べなかった空腹を満たすために、携帯燃料で飯を炊き、缶詰をお菜として暖かい食事をしたが、その美味かった事、おそらく前従軍期間を通じて、最高の気分だった。だが、何としても眠る場所が無い、みんなうずくまったままうとうとしていた。

雲南作戦(四)

 道路の両側の高所に歩哨を立てて人も馬も声を潜めて休んでいたのだが、雨はますます土砂降りとなり、道路は川になってしまった。その流れを堰き止めて寝転んでいる兵隊もあった。温度はぐんぐん下がり、びしょ濡れの体ではぞくぞくしてとても眠るどころではないはずだが、まったく疲れ切っているのだろう、ぐうぐう鼾(イビキ)をかいているものもいる。このまま眠り続けたら、おそらく凍死をするのではないかと思われる寒さだ。中には寝ている牛の背中にへばり付いて暖を取っているものもあった。そんな状況下に歩哨に立たされたが、すぐ近くで戦闘が行われるらしく、機銃の音がカタカタ、ドンドンと続き、時々は曳光弾が鋭い尾を引いて、頭上をかすめて飛んでいく。どこから敵が襲撃してくるか分からない逼迫した空気にもかかわらず、全身を襲う睡魔と闘うのに精一杯で、敵に対する警戒どころではなかった。目を大きく見開き、歯を喰いしばっていても、いつの間にかウトウトと気が遠くなり、抱いた銃の重みでクラっと前に体が傾いて、はっと我に返るという案配で、敵襲の恐ろしさも、全身びしょ濡れの悪寒も感じなかったほどの眠気だった。

 こんな状態で時間の経つのも知らずにいるとき交代が来た。その頃はいよいよ彼我の銃声は激しくなり、しかもだんだん近づいてくるので、友軍が苦戦して後退してくると判断した櫃間中尉は、ひとまず全員退去を命じ、大急ぎで装具を牛馬の背に括り付けて一斉に退去を始めた。ところがこの騒ぎを探知した敵は、山の反対側から迫撃砲の追い討ちをかけてきた。俺は幸いに足の速い馬を引いていたので、その首にぶら下がるようにして先頭辺りを走って後退したが、ドカンドカンと連続的に炸裂する砲弾の爆風に煽られ、全く生きた心地も無かったが、無事に逃げおおせた。しかし、のろまの牛を引いて最後尾を逃げた桑折上等兵は、砲弾の破片で尻をやられ、その牛と共に退死してしまった。福島県で畳屋をしていたというひょうきんな男は、常に妻子の写真を肌身に付けていて、駐屯地では必ず枕元に箱を備え、それを飾り付けていた良い親父だったのに、まったく可愛そうな事をしてしまった。かてて加えて砲弾が落下する中では、遺体の処理も出来ず、そのまま放置されてしまった。

雲南作戦(三)

 いよいよこれから敵の着弾距離になる道路を突破し、龍陵へ進撃するという戦闘部隊について、仮繃帯所(カリホウタイショ)(※1)を開所し、併せて診水も行うことになった。

 昭和十九年九月?日、まず攻撃は歩兵第四連隊の主力を待って、通称小松山の奪還作戦から始められた。そこは、ビルマ公路を見下ろす位置で、敵の陣地を構築されていた。本体は、衛生材料を自動車に積んで先行し、我々騎馬部隊は、ノロノロと進んだ。中にはビルマで徴発した赤牛もかなりいて、文字通り牛の歩みだ。雨は降りしきり、暗くもなってきた。それでなくとも心が減りこみそうな、およそ戦闘意欲などは皆無になっているときに、ドロドロンという遠雷のような砲声が次第に近くに聞こえるようになり、パンパンという小銃の音や、カタカタカタと枝を叩く様な機銃の音も、山の中腹辺りから聞こえてきた。誰も口を利くのも億劫な風だったが、ぽつんと一声、

「あれは味方の砲声だろう。」

と言った。おそらく言った本人もそうと信じたわけではなく、そうあってほしいという希望に過ぎなかったのだろうが、その一言で何となくホッとした様なざわめきが隊列を流れ去った。ところが数分も経たないうちにそれは完全に裏切られた。すぐ前の山の、向こう側から撃ってくる敵の山砲弾らしいのが、我々の進路の上に確実に落下し始めたのだ。この道路は山の斜面を縫って走る一本道だったのだ。山の向こうでドーンという鈍い発射音が聞こえると、間髪を入れずビューンという不気味な音を伴った弾丸が飛来し、路上で炸裂してピカッと光った。次の瞬間ガーンと耳をつんざく様な爆発音だ。これが十秒間隔くらいで規則正しく繰り返された。ほかに迂回路は無く、退くことは到底許されないので、一発落ちた直後に一人づつ、その危険区域を通過するのだ。前の一人が馬とともに走って山の向こう側へ消える途端にガーンと一発来る。

「それッ」

と、ばかりに馬の口を取って一散に走り出す。まるで呼吸も止まるような緊迫感だ。どうやら山の向こうへ廻ったと思う頃、すぐにガーンと来た。

「やれやれ助かった。」

という感じはまたなんともいえない快味である。こうして全員どうやら第一の難関は突破した。こうした山また山を縫って蛇行するビルマ公路を進んだが、雨はますます降りつのり、西も東も分からず、先行の本隊とも連絡がつかなくなり、山を切り通した道路脇にひとまず馬を繋いで夜明けを待つことになった。

※1:戦場で負傷者に応急手当を施す所で、戦線の間近な後方に設けるもの。

雲南作戦(二)

 ここラシヲの街は、ビルマの北端に近い所で気候は良く、周囲を山に囲まれた盆地で、郷里魚沼盆地とよく似た地形だった。村外れから「岩山」、「酒郷」方面の山を見る景色に良く似ていて、ひとしお懐かしかった。しかし、街には殆ど人影も無く、日本軍が所々に駐留しているだけだが、その廃墟に対して昼間から英軍機が銃撃を浴びせてきた。村外れにある日本軍飛行機上にはもはや一機の飛行機も見えない。ここで、後続の駐留部隊の到着を待って、いよいよ山また山の雲南省へ向かって行軍を開始した。行けども行けども山ばかり、人家も耕地も殆ど見られない。雨は降り出したら、天が破れた様な土砂降りで、体という体全部がぐしょぐしょになってしまった。息は一層消沈して、休養と慰安が待っているという普通の演習だったら張り合いもあるのだろうが、敵が砲門を置いて待ち構えているというのでは、誰だって足が重くなるわけだ。山中の小休止に何とかして火を燃やそうと苦心するが、朽木も葉もすっかり濡れきっているので煙も出ない。何でもよいから雨の落ちないところで休みたいと願っても、掘立小屋さえないのだ。

 こんな惨憺たる行軍を続けて、やがてビルマと支那の国境の街「椀鎮」に着いた。こことても、住民は殆どどこかへ逃げてしまってガランとしていた。ただ殺風景な日本軍の人馬がひしめき合っているだけだ。さらに進んで「芳市」という街へ来た。ここもまったくの無人外だが、どこからとも無く支那人の女が、内地と同じ笹の葉に包んだ餅を持ってきて、塩や薬品と物交していく。しかし、ここまで来ては、とても余分に塩など持っているものは無く、茶もろくに無いから恨めしく見送るだけだった。

 ここでは学校の様な建物に宿営したが、翌朝未明に「敵襲!」の非常呼集がかかったが、何もなすことが無く、右往左往している間に、彼我の機関銃の打ち合いが鈍く聞こえただけで敵は退散してしまった。かねて覚悟してきたのだが、やはり敵が目の前にいることを知らされたこの事件は、誰もが青ざめた思いだったに違いない。

 こんな山の中の廃墟にも内地人や朝鮮人の慰安婦がかなりいて、この敵襲騒ぎで壕へ逃げ込む姿を見て、また別な驚きを感じた。この女たちも最後の一人まで兵隊と一緒になって敵と交戦し、散っていったという話を後で聞き、憐れの情を催したが、その真偽の程は分からない。この先に尚、龍陵、羅孟、騰越など、日本軍の占領している街があったが、既に重慶軍に退路を立たれて孤立していた。羅孟までは到底行けようもなく、玉砕を見送るしかないという悲しい状況にあった。

雲南作戦(一)

 昭和十九年八月、いよいよ戦局は我が方に利在らず、南太平洋でも、印緬国境でもジリジリ圧迫されて後退を続けた。内地さえも連日の空襲を受けるようになったらしいという情報も伝えられた。そんな最中、今度はビルマの奥地、支那との国境方面に警備に当っている我が方の部隊にも危機が迫ってきたというので、インパール作戦の残留部隊は、そちらへ救援作戦を敢行することになった。

 これまでは、自動車に依存して移動していたが、今度は山岳戦になるというので、各部隊に馬が配属された。当部隊にも、内地からの老朽馬と現地徴発の小柄な支那馬が十数頭配置され、新たに内堀准尉を長とする馬部隊が編成された。そして、連日の土砂降りをおかして、馬の貨車積みを行い、遥かビルマの北端まで運んだ。途中行軍もかなりあったが、何しろ慣れない馬の旅では荷物が多過ぎて、馬も人間も疲労が甚だしい。そこで余分な荷物全部を纏めて汽車に積み、ラシヲへ先行するために、山口二等兵と俺がまた汽車に乗り込んだ。

 この汽車は、薪を炊いて走るので、機関車は馬鹿に大きいが、速力はあまり出ず、客車も木の椅子でスプリングは固く、まるで貨車に乗っているようだった。それでも、一週間以上もろくに眠らない行軍の後だったから、すっかり眠りこけてしまった。。終点ラシヲに到着したのは未明だったが、灯火管制が徹底していて駅は真っ暗だった。急いで装具を身につけたところ、いやに腰が軽いので、ふと見ると帯剣の中身が無い。列車で外して棚に載せておいた間に抜けてしまったか、それとも他所の兵隊に抜かれたか、いずれにしろ兵士の魂とも言うべき帯剣を無くした事は、穏やかには済まないことになったと一時はまったく途方にくれた。しかし、暗闇の中で探すにも探されず、また多くの装備を預かっているので、ぐずぐずしているわけにもいかず、すぐに定期便のトラックに便乗して、先着している部隊に行き、その旨を櫃間中尉に報告した。どんな処分を受けるかと思ってビクビクしていたが、

「戦争に行くというのに剣を無くすとは。」

と一言いわれただけで終わった。そして、古い連中から、

「こんな時に、帯剣くらいどこででも手に入るからビクビクすることは無いよ。」

と励まされ、我ながら妙な気持ちだったが、果たして、その古参兵が翌日自動車で連絡に出て帰ってきたとき、

「拾ってきたよ。」

と言ってあっさり帯剣をよこした。元通り帯剣が腰にぶら下がってほっとした。これがもし、平時の出来事だったら、目の眩むほど殴られた上、営倉くらいは喰らうところだった。

マライからビルマへ(六)

 ある日、清水大尉が公用で出張することになり、四、五日隊を空ける事になったので、印鑑を下山軍曹を預けたことがある。そのとき下山軍曹は大いに男気を発揮するつもりか、手紙の検印を俺がしてやるから、何でも書きたいものを書いて出せということになった。喜んだのは妻子と別れていた老兵どもで、検閲に引っかかるのが怖くて真心を書き送ることが出来ない、この時ばかりと、思い思いの手紙を妻子のところへ書いた。しかし、検閲は隊を出てからでも、何回やられるかわからないので、うっかり反戦、反軍的なことはかけないと俺は自重して、当たり障りの無い事しか書かなかった。ところが、仲間には妻恋しさから里心を出しすぎて、反戦的愚痴を書いたものがあったので、ラングーンの憲兵隊の検閲に引っかかり、下山軍曹や清水大尉は何等の処分も無かったらしい事は、どうも腑に落ちない点であった。

 三月ともなると、今まで一滴も降らなかった雨がぽつぽつ降り始めた。このころになると、どこの部落でも一斉に屋根の葺き替えをやり、雨季に備えて家や家具の整備をやるのだ。そして、六月から九月の終わりまでは、まるで点の一角が崩れたように、毎日毎日土砂降りで、田も畑も道路もすっかり水浸しになってしまう。川という川は狂ったように氾濫した。部落内でさえも、隣から隣へ船で渡る始末なのだ。この雨のために、後方輸送路を断たれた印緬国境の友軍は壊滅してしまった。こんな有様では、防疫活動も出来ないので、本体への復帰命令が来た。豪雨の中を移動したが、イワラジ川を渡る時はまったく寿命の縮まる思いだった。大海のような広さで、しかも物凄い渦が巻いており、小さな船は今にも巻き込まれそうだった。

 バイセンの本隊へ帰ったら、手紙の検閲の一件で、部隊長の前に並ばされて大目玉を喰らった。そんなことがあってから間もなく、今度はアラカン越えの分遣隊に編入されて、豪雨の中を再び移動の旅に出た。

 今度はプローム組よりさらに人数が少なく、清水万之助少尉を長とするわずか七、八人の一行になってしまった。そして、もう一度猛り狂うイワラジ川を渡って西部地区に移り、それから民家などに宿泊しながら、徒歩で山間部に入っていった。終日の土砂降りに加え、山ヒルが頭上の木の枝から音も無く無数に振ってきて、襟首や脚絆(キャハン)の間から体に入り込み吸い付く。全然感じないうちに、多量の血が吸われてしまう、実に薄気味の悪いものである。こんな旅を幾日か重ねているうちに、目的も達しない間に後方から伝令が来て、移動することになったから、急いで帰隊するようにとのことで、何も仕事をしないうちにまた元来た道を引き返して本隊に帰った。