カテゴリー別アーカイブ: 第十一章 終戦

終戦(五)

船は佐渡で船大工をしていた寺尾上等兵が作り、網もすべて手製のものだったが、それでも地曳き網、投網、はえ網、底釣りなど数種の漁法を用いて、名も知らない大小の魚をかなり捕まえることが出来た。そこは海岸といっても、深く、河のように陸地にくい込んだ入り江、上げ潮のときは陸に向かい、引き潮のときは海へ向かってものすごい奔流となって河が上下するのだ。満潮時と干潮時では、垂直距離にして一丈のあまりも差があり、辺りの景色が一変するのだが、その干潮時のわずかの時間を狙って、地曳き網や投網をかけるのだし、底釣りもその時が比較的いいようだった。狭い入り江に地曳き網を仕掛けて、段々しぼっていき、最後のドタン場で網を突き破るほど暴れ回る大魚をひっ捕まえる爽快感は、何とも言えないが、鯛の一匹もかからないときもあって、そんなときは全くがっかりした。

しかし,これですべての生計を立てているわけではないので、いたってのんびりした魚師生活だった。ところが、段々勢力を得てきた反英仏ラロ国(我々は越盟団といった)の一部が、この辺りの、網の目のような水路の中に潜伏しているというので、仏軍の戦闘機が頭上を飛び回るようになった。底釣りをしている時、近くに繋いであった苫船が銃撃されたことがあったが、てっきり自分らをテロ団の一味と間違えてやってきたものと勘違いして、全員海へ飛び込んで、ずぶ濡れになってやっと逃げ帰ったなど、笑えぬナンセンスもあった。こんな危険があったが、ときにはうまく魚の大群を地曳き網にいれ、網が白く見えるほどにかかったり、底釣りで、糸を下げればかかり、下げればかかり、まったく息つく暇もなくて、舟一杯釣り揚げたこともあった。

昭和二十一年の正月は、戦争に負けたとはいえ、こうしたのんびりした中で迎えた。餅も、現地調達した米を足踏みの杵でつき、航空燃料に使っていたアルコールを加えて酒の代わりにしたものも結構飲めた。ただ一抹の不安は、いつになったら帰国できるかということだけだった。
軍隊としての任務は終わったが、長い間の訓練で、部隊としての秩序だけは整然と保たれていた。遅ればせながら終戦兵長ということにもなった。そのうちどこからともなく帰国も近いという噂が伝わりだし、兵隊たちは、それぞれにズックの布地などでリックサックを作り始め、身の周りの整理をぼつぼつやりだした。

終戦(四)

そのうち、内地帰還の話も出始めめたが、船の殆どを沈められたので、残った船舶を総動員しても、海外に生き残った日本人全員を送還するには、短くても七年はかかるだろうとか、内地に帰すと言って船に乗せ、東支那海へ捨てるのだろうなどと様々なデマが乱れ飛んだが、どれも実感が伴わず、自分たちの身に差し迫った危機でないだけに、みんなのんびりしていられた。

武装解除は段々進み、まず兵器弾薬を一定の場所に集積することを命ぜられた。その使役に行ったが、どこにこれだけの弾薬や被服衣類があったのだろうと思うほどのおびただしいものだった。だから世界の情勢のよく分からない現地人など、なぜ日本はこれだけの物がありながらアメリカに降伏したのか、今からでも俺たちと手を組んでもう一度戦争をやろう、と言う青年が多数現れたのも無理のない話だった。そして最後に、兵隊たちのゴボー剣まで全部集めて、敵さんの将校に渡し、英国国旗に忠誠を誓わされた。これで本当に丸腰になり、軍隊ではなくなってしまったので、気分的にはとても楽になった。

そして、内地帰還までは、自給体制をとらなくてはならないと、農耕班と漁労班とに分かれて、本格的な長期篭城計画を立てた。ところがどういう風の吹きまわしか、船の漕ぎ方も知らない俺に、漁労班の役割がついた。おそらく、使いにくい奴ばかりをより抜いて、海へ追い払ったのではないかと思われる顔ぶれで魚師班が作られた。海に面した海岸の、名もない部落のお寺のような家を借りて、横尾軍曹を長として七、八人が本格的に魚取りを始めた。

終戦(三)

もう戦争は終わってしまったので、何年こんな生活が続くかしれないというので、自給自足を図るため、畑を耕すことになった。将校まで一緒になって、菜っぱやきゅうりを作った。この近くには、朝市のたつところがあって、果物や穀物、雑貨などが土地の人によって商いされていた。その市で、アヒルの子を買って来て飼育してみたが、夜の冷え込みがひどいのかみんな死んでしまった。そこで、親付きの雌を飼おうということになり、有沢君と共同で、めん鳥一羽、雛十羽を買ってきた。これはすくすくと上手く育ったが、突然下痢をし始め、次々またみんな死んでしまった。そのはず、この辺りには、にわとりコレラという病気があって、部隊本部でも大量に飼っていたが、次々とやられてしまったということだった。

そのうちに、サイゴンに英国の軍隊が上陸したが、現地人の中には、日本の敗戦を喜ばず、日本軍と手を握り会って、反英仏革命を起こし、独立しようという一派があって、上陸軍に抵抗したやめ、双方に負傷者を出すという事件があった。これを日本軍の責任として、連合国側はわが司令官に、現地人の鎮撫を命じた。そのかわり、日本軍は降伏したが、当分は武装を認められ、サイゴン市街には再び日本軍の歩硝が着剣で立つようになり、進駐した英軍は、宿舎の周りに鉄条網を巡らして、一歩も外に出ないという緊張ぶりだった。すると今度は、革命軍側で、連合軍側に対して一切物資を納入しないという強硬手段をとり、これを破った現地人商人が、次々とリンチにあい、この世を去るという極めて険悪な情勢となった。

毎朝、その真ん中の一番人の通るところに莚を敷いた上に、生首がデンと据えてあった。その横に現地語で何やら書いてあるので、いくらか日本語の出きる青年に聞いてみると、村民の申し合わせを裏切って、英印軍に野菜を納入したから、見せしめのためにさらし首にするのだという実に残虐な話で、まるで無警察のような有様だ。そして、反英血盟団とも言うべきテロ団が出来て、しきりに日本軍に武器の引渡しを要求し、兵隊に対しては、逃亡して味方に入れば、現地娘を一人充てがい、将校待遇にするからと誘惑してくる。中には本気で逃亡するものもいた。この部隊から二人ほど逃亡したし、他部隊では衛生司令以下十名ほどが、武器弾薬をトラックに積み込んで集団脱走をしたものもあるという始末だ。しかし、軍としてはこれを追及する様子もない。憲兵隊が一番先に進駐軍に拘留されているのだから、それも出来ないはずだが、それにしては、日本軍には殆ど混乱はなく、秩序が保たれているのが不思議なほどだった。

終戦(2)

まもなく、師団はサイゴン周辺に集結を命じられ、我々も馬を連れて、近くの病馬廠へ移動することになった。今度は徒歩で旅を続けた。折り悪く雨に降られ、途中の行軍はかなり難行だったが、なにしろ戦争はもう終わったと言う安心感で、むしろ楽しい旅だった。雌馬の中に、放牧中に妊娠していたのがいたが、行軍で無理をしたのか、途中で流産した。もの言わぬだけに、どの馬がお産をしたのかさえわからずじまいだった。

病馬廠に馬を引き渡すとすぐに、各々原隊に復帰を命ぜられ、各隊から迎えが来て、それぞれの本隊へと去っていった。我々の防疫給水部も、サイゴン市内の仮兵舎に、市内消毒のための部隊を派遣していたので、とりあえずそこへ連れていかれた。そこの長(新任の将校)に申告して、すぐにトラックに便乗し、サイゴン市街の本隊へ帰った。そこは戸数五、六戸しかない部隊で、馬部隊は例によって、少し離れたところに別々に宿舎を貰って、寺のような現地人の建物で暮らした。ウドンの町にいるとき、本隊を離れて病馬廠に移ってから三、四ケ月になったと思うが、やはり自分の隊はいいと思った。ビルマで西と東になっていた荻野伍長等も既に合流していたので、それこそ一年ぶりで全部揃ったわけだ。しかし、ビルマ戦線で、空襲でやられた兵隊も一人か二人いたので、やはり物淋しい気分は漂っていた。

ここには、留守番みたいな老夫婦と、貰い子らしい二人の可愛らしい男の子がいて、部隊の炊事を手伝ったり、残飯を持っていったりして生活していた。その他にこれという収入もなさそうなのに、お婆さんが毎晩焼酎を飲んでいるところをみると、貰い子の養育料が入るらしい。ここにはまだ、馬が十数等いて、馬車を曳かせて草刈りに行ったり、町へ買物に使ったりして重宝していた。

終戦(1)

 そんな日がかなり続いて、八月十六日か十七日ごろ、重要な訓示があるというので、突然全員集合を命ぜられ、何ごとならんと指定場所へ集まると、部隊本部から将校が来ていて、日本は連合国の発表したポツダム宣言(休戦に関する提案)を受諾することに決した。しかし、別命あるまで、各員は戦闘体制をとかず、現在地で勤務するようにというのだった。訓話の表面だけだと、戦争に負けたのではなくて
、休戦の申入れを受諾したということだが、今までの戦況から言って、日本は負けたのだろうという考えは殆どすべての兵が持ったらしく、みんなガックリした表情になっていた。それから後は、遅くまで兵舎のあっちこっちでボソボソ夜通し話が続けられていた。もう戦争は終わった。だけど、我々の運命は一体どうなるのだろうか、内地の様子はどうかなど、次々と不安が広がっていった。

 その翌日は、まるで世界が変わったような気がした。しかし、軍律だけは乱す者もなく、無気力ながら仕事は続けられた。終戦の報は、世界中をびっくりさせたはずだが、そのあと町へ出てみると、町民は日本兵を馬鹿にするどころか、前より親しみ深くなり、どうして日本は降参をしたのかと、漢字の書ける青年から、詰問的な筆談をかけられて、面食らったことさえあった。