カテゴリー別アーカイブ: 第十章 仏領印度支那駐屯

仏領印度支那駐屯(四)

昭和二十年五月、行動を起こし、全部の病馬をダルマ船に積み込んで、ポンポン船に曳かせて、メコンの大河を逆行するという、極めて大陸的な旅行だった。

今度のは、ビルマ大陸での汽車旅行とは反対に、昼間だけ船を走らせて、大昔から大河メコンを上下する河船の船付場と宿場町が至る所にあって、そこは飲み屋と淫売宿がつきものだ。ある街では、兵隊服での外出は禁じられていることから、白い作業衣の上着だけをひっかけて飛び出し、街の女たちを冷やかしていた。ところが、憲兵の巡回に遭って、肝を冷したが、女たちがぐるりと我々を取り巻いてくれ、その真ん中にしゃがんで、危うく難を免れたこともあった。四、五日もかかって、大メコンを逆行して移った先は、まったく人里を離れた高原の野原で、そこに先行した設営隊が、現地人を使って、丸太と二ッパ椰子で厩舎と兵舎を建ててあった。船から揚げた馬は、乗馬隊と徒歩隊に別れて誘導し、この新しい牧草地へ収容した。

ここでの生活は、まるでソロモン群島へ逆戻りしたと錯覚を起こすような活気もなければ、原住民の顔も殆ど見られない殺風景なものだった。そこで幾日か過ぎたころ、門脇獣医中尉が、街から華やかな安南娘を五、六人連れてきて、ひどく兵隊たちを興奮させたが、どうしたわけか慰安所設置はお流れにになって、女たちはその翌日、兵隊たちのあっけにとられた顔を尻目に、卦嬌声を残して去っていった。まったく罪作りであった。そのかわり、一日交替で船を仕立て、数キロ離れた街へ外出させることを許し、早速実設に移した。ところがそれがまた、すごいジャングルの中の急流を、両岸の樹木や葉に掴まりながら、メコンの支流に出て、更に数時間もかかっていく。メコンの船付場の名もない小さな町だった。それでも飲み屋と女を置いた家が数件あって、日頃のジャングル生活の憂さを晴らすには充分だった。それには金がいる。仏印政府の金はなかなか手にはいらない。結局、配給の煙草や靴下などを売るわけだ。煙草はかなり配給されたが、いくらもすわないで、それを十個ほどと、ジャワ島で買ったスイス製の下げ時計を売ったりして、一日遊んで兵舎へ戻ったこともあった。

この付近には、時々虎も出没するというので、恐れられていたが、ついぞ足跡も糞も見ずにしまった。
しかし、町に出るときなど、河岸の茂みに野生の孔雀やペリカンをよく見かけたし、野雉はどこにもいた。また、沼地には、巨大な泥貝がいたし、親指大のヒルが、ヒラヒラと泳ぎ回って不気味だった。給与は案外よく、野菜などもまずいが豊富に食わせてくれた。こんな山の中だから、毎日が平穏無事だった。ともすると、戦争のことなど忘れてしまいそうだが、内地では、連日大空襲を受けて、東京など焼け野原になったそうだ、などという噂と、戦争は八月には終わるらしいということが、誰からともなく言いふらされた。もし負けたらとても内地へなど帰れないから、武器を持って逃走し、山賊になろうかなどと冗談半分に言い合ったりしていたが、誰でも内心はかすかな不安を持っている様だった。

仏領印度支那駐屯(三)

 日曜日には、トラックでプノンペンの町まで遊びに連れていってもらうのだが、そこはカンボチヤ国王のいる首都だけに、なかなか立派な町で、軍の慰安所もあるし、近くに軍の飛行場もあって、ビルマ戦線ではもう見られなくなった日の丸の鮮やかな双発機が、威勢よく飛び交っていた。

 この辺の住民は、外国人と同じような顔立ちだが、男女ともに坊主刈りで、衣類は黒っぽい粗末なもの、しかも素足が常習ときているので、程度は低いといわなければなるまい。現地の雑役夫を雇っておいたが、彼らは簡単に炊事道具だけを天秤棒で担いできて、忽ち小屋を建て、そこで寝泊りしている。実に安上がりである。朝は細君が、枡の壷のようなものを持って出ていき、近くの沼から鰻の頭を曳きづって来て、これを鉈で料理して朝飯である。常食は米だが箸を使わず手つかみだ。しかし、支那系の人々は、箸を使い、漢字を解するので、いくらか物の分かりそうな人物をつかまえて筆談すれば、大抵のことは通じる。

 放牧場になっている野原の中に貯水池があって、東屋風の建物があり、そこが旅行者の休み場所となっているらしく、誰でも自由にはいって休むことが出来るようになっていた。そして、その小屋の壁面には、漢字で、「この地方は水が少なく、旅行者が炎天下に非常な苦しみをなめていたが、某と言う偉人が私財を投じて貯水池を掘り、この家を建てたので、以後、おおいに旅行者は助かっている」という意味のことが書いてあった。それを見て、少年時代、郷里の行去塚の井戸の由来を記した碑文がこれとほぼ同じ文体で、同じことが書いてあったことを思い出して懐かしかった。

 この原野に来てしばらくしてから、古い兵隊たちが独断で、禁断の雄馬と雌とを共に放牧したので、雄同士でものすごい決闘が始まり、収拾のつかないことになったことがある。それはまったく想像以上のもので、蹴り合い、噛み合いから果ては後ろ足で立ち上がって殴り合いまでやり、弱い奴は眼球が飛び出して、片目になったり、足の自由がきかなかったり、散々な目に合わされた上、すごすごと馬群から去っていくのだ。

 こうして残った威勢のいいのが何頭かで、全部の雌を分けて支配すると、もう闘争は起こらない。一度血で血を洗う決闘の後、雄同士の実力が判ってしまうと、それに応じた勢力分野が決まり、一頭に雌数頭のグループが幾つか出来て、後は平穏な牧場風景になった。
 こうして平穏無事な牧場生活は、至極のんびり経過していたが、一つ悪いことには、4・5人の兵隊達が殆ど毎晩徹夜でオイチョカブと呼ばれるバクチをやっていることだ。わずかしか貰わない給料をやったり、取ったりしても仕方がないと思われるが、やっている本人は、無中なのだから、他からの警告を聞こうともしない。これは何もこの部隊だけのことではなく、おそらく全軍の至る所で行なわれている悪事の一つだろう。俺は幸いにしてまだ一回も仲間にはいったことがなかったので、食わず嫌いで通した。こんな閑静な生活を送っている間にも、戦局はいよいよ我が方に不利に向かっており、更にここからメコン河をのぼって、安南の国の丘陵地帯に師団は立てこもることになった。

仏領印度支那駐屯(二)

 このころになると、南太平洋では、制海空権を敵に取られ、フィリピン群島のレイテ島に米軍が上陸し、マリアナ群島の基地から、B二十九の大編隊が直接、東京その他、内地の主要都市を空襲していることが敵方の宣伝でほぼ明らかになった。そして、

「今年の八月には、戦争は終わる。」

ということが、まことしやかに語り継がれるようになった。この状況で、戦争が終わるとすれば日本が負けることではないか、そんなことがあってたまるものか、と心には思ったが、なぜかそれが本当のことになりそうな気がした。

 こんなときだけに、師団は最後までここで抵抗するという段取りらしく、各部隊の病気や栄養障害で弱っている馬を病馬廠(ビョウマショウ)にあつめて、健康馬にするという至極のんびりした計画が始まり、我隊からも、二頭ばかり現地徴発の馬をそこにまわすことになった。その付き添いに住安君が行くことになったが、どうしたわけか、急に俺のところへお鉢が回ってきた。なんだか部隊の暖かい環境から、追い出されるようで面白くなかったが、今まで随分危うい役割を免れているので、今度くらいは仕方が無かろうと思った。

 病馬廠という部隊は、二、三人の獣医と下士官に、兵が十数人くらいのごく小さい隊で、カンボジアの首都プノンペンの近くの原野に、バラックの厩舎を建て、病気の馬を収容していたが、その中には、病気どころかものすごく張り切った、しかも去勢していない本物の牡馬が十数頭いて、きわめて賑やかだった。兵隊に対しては、まるで猫のようにおとなしいが、さて馬同士となると、猛獣のような凄まじさだ。馬房のしきりには、厚さ二寸もある板木を鎖で天井から吊るしておいて、両方から蹴飛ばしても、動揺するだけで割れないという仕掛けにしてあった。小さいながら、馬の後ろ足で力任せに蹴るのだから、どんな丈夫のものでも固定してあったら、必ず折れるか、割れるか、さもなくば足が折れるだろう。これを他の雌馬や去勢馬と一緒に放牧したら、大変なことになるだろうというので、放牧は、雌と去勢馬だけにした。

ここでの仕事は、放牧した馬の監視と草刈りくらいのもので、各部隊からの寄り合い世帯だが、思ったよりは愉快だった。十六連隊からの阿部上等兵、野砲からの沼上兵長、衛生隊の広瀬上等兵などが印象深い。

仏領印度支那駐屯(一)

 間もなくまた、移動の命令が出て、師団はカンボジア国の首都プノンペンの郊外に移ることになり、再びバンコク駅から列車に乗って北上し、メコン川を渡し舟で越えて、ウドンという街に着いた。カンボジアは、タイ国よりさらに民度の低い国で、住民の殆どが坊主頭で、素足に黒っぽいシャツに股引きといった服装だ。主食は米が豊富に取れるので、不自由はなさそうだが、電灯も無く、例外なく竹とニッパ椰子でできた掘っ立て小屋に住んでいた。しかし、お寺だけは立派で、どんな小さな部落でも必ずといっていいほどあって、柿色の衣を纏った、あまり上品とは思えない坊さんがうようよしていた。

 戦局はますます不利になり、今はいかにして敵の侵入を防ぐかで、作戦参謀も頭がいっぱいというところらしく、我々非戦闘部隊にまで、対戦車肉迫攻撃演習を強行させられた。それは、骨箱とあだ名された八寸立方くらいの木箱の中に、爆薬を装填し、これに紐がついていて、これを抱えて爆進してく敵戦車の前に飛び出して伏せ、自分の体が戦車の下敷きになったとき、その紐を引けば中の爆薬が炸裂して、敵戦車を喀座させるというまったく惨めな戦法であった。そのころ敵の主力をなすM三、M四などと称する戦車は、装甲がものすごく厚く、八サンチ野砲の直撃弾でもその前面の鉄甲を破ることができないので、その下に潜って、一番甲の薄い下部を割るより他にやっつける手は無いというのだ。ところが、その爆薬の発火装置というのが、爆薬の中に燐寸の箱と燐寸棒が入っていて、その棒に紐を付けて外に出しておき、それを強く引っ張れば燐寸が擦れて、爆発するというまさに前世紀的な新型兵器と聞かされては、本気で演習するのも馬鹿馬鹿しくなってしまった。誰の考案か知らないが、これを抱えて飛び出せば、人間一人は必ず死ぬ。敵戦車をやっつけるなどは、百に一つも成功はおぼつかないものだ。兵士の命など、まるで虫ケラ同様に扱われているのだ。

 もう一つ、新兵器と称して渡されたものに、小銃の先に直径一寸五部くらいの筒を取り付けて、これに手榴弾を入れて空砲を発射し、三十メートルくらい先へ飛ばすというものだ。これなら確かに手で投げるよりは遠距離まで飛ばせることは確かだが、銃一丁に一ケずつ渡ったのではなく、十人に一つも渡らないのだから、大してものの役に立たない。これを運悪く持たされたが、どうしても使用するのか、ろくに操法も知らずにいると、たまたま兵器検査のときに、操作してみろといわれ、さっぱり出来なくて、とんだ赤恥をかかされたことがあった。