カテゴリー別アーカイブ: 第四章 出動

出動(四)

 退屈極まる航海がまた五日ほど続いた後、船団は仏印のカムラン湾に入った。ここは日露戦争の時、バルチック艦隊が寄港して休養をとった所だという。その入り口は山と山に囲まれた実に狭い海峡だったが、中は物凄く広い。その中にぎっしりとありとあらゆる種類の艦船がひしめいていた。その偉容はなんとも形容し難いもので、無敵大海軍の名に背かないものだった。この大艦隊がまさか二ヶ年余の間に全滅してしまうとは誰が想像したことだろう。

 カムラン湾停泊中に、一回半舷上陸を許されたが、陸に上がってみたというだけで町があるわけではなく、きれいな川も沼も無く、百姓部落の井戸水をもらって行水しただけだった。それでも、十日間も船上で暮らした後で踏みしめる大地のガッシリとした安定感はなんともいえぬ頼もしさだった。この部落民は支那系の人々で、黒づくめの木綿服に素足という極めて素朴なものだ。家屋などもまるで日本の山小屋か、畑の番小屋程度の粗末なもの、家財道具などもまるで無い様子だった。

 カムラン湾に何日くらい居たろうか。明けても暮れても船の上で、木もろくに生えていない仏印の山々と湾内に停泊している艦船を眺めて暮らすのは、実に退屈だった。そのうち、二月十五日にシンガポールの英豪連合軍が降伏したというので内地では大祝賀会が行われるという。全員武装して甲板に集まり、皇居遥拝の式を行い、少々のお酒と甘味品の下給があった。そしてその翌日、船は港を出た。三日振りで動き出した船上はそよかぜが吹き渡り、兵隊たちも生気を取り戻したようだった。湾外に出たところでおびただしい輸送船団と合流して大船団となり、それに護衛として第八艦隊といわれる巡洋艦数隻を含む大艦隊がついてきた。

 最後の寄港地を離れたのでもう機密の漏れる恐れは無いというわけで、師団の任務が発表された。それによると、師団は昭和十七年三月一日、午前三時を期して蘭領のジャワ島に敵前上陸し、英豪連合軍を殲滅するというのだ。そして現地についての気候、風俗等についての概略の説明が合った後、現地語であるマレー語の教育も行われ始めた。その時になって始めて各船に数人のマレー語の通訳官が乗り込んでいたことが分かった。

 大船団はジャワ島へジャワ島へとひた押しに進んでいった。途中、どこの基地から飛んでくるのか、日の丸も鮮やかな銀翼を張った海軍機の大編隊が、ごうごうと船団の上を通過して、南の水平線に消えていった。実に頼もしい限りであった。

 出港してから何日目か。水平線上にかすかに陸影を認めて兵隊たちは大喜びだった。船員の話ではアンナバス諸島の一部だという。海はますます静かになってきたが、暑さは一層苛烈になり、一時間も船室に続けて居られない。一日一度はきっとスコールがやってくる。その時ばかりはみんなで素っ裸になって甲板に飛び出し、体をびしょ濡れに濡らして喜び合った。

 これがどこか平和な新天地を求めての旅だったらどんなに楽しいことだろう。しかし現実は、敵がてぐすね引いて待ち受けている地域だ。

「海岸線まで鉄道が来ている場所へ上陸するのだから、おそらく列車砲などもあるだろう。この船団の三分の一は犠牲になる覚悟の上陸である。」

 と誰言うともなく言いふらされた。そのうち、敵艦隊が現れたという情報で、船団は回れ右をして北へ引き返すこと一昼夜、その間護衛の艦隊だけが全速前進をした。後で分かったのだが、このとき米豪連合艦隊との間でジャワ沖海戦が行われ、敵艦隊に大打撃を与えたのだった。そこでもう大丈夫とあって、再び船団は南下を始めた。この後退のため、三月一日の上陸が一日伸びた。

出動(三)

 基隆には三、四日の停泊で何も積み込まず、またもとの七隻の輸送船団と二隻の駆潜艇の護衛で、台湾海峡を南下することになった。基隆港を出た後、甲板から兵隊が一人海中に落ちたとかで、二回ほど同じところを旋回したが、暗夜のためわからぬまま通過してしまった。

 丸一日くらいの航海で船団は高雄港外に到着した。この辺りは波も静からしく、防波堤も何も無い全くの港外に大小様々な船が無数に碇を投じていた。我が船団もすぐに港へ入らず、その群れの中に投錨した。ここはもう南洋に近いだけに、直射日光はキラキラと眩しく、船内はまるで蒸し風呂のようだった。

 特に食事は大抵出来たての熱いものばかりなので、大汗をかきながら食べ、終わるとすぐに甲板へ逃れて涼をとった。風も無く、熱帯の太陽がギラギラ照りつけ、動かない船内はまた一層暑苦しかった。そんなある日、甲板上で涼をとっていると船員の一人が、

「ふかじゃ、ふかじゃ」

 といって甲板を走っていくので、後を追って海を見ると、なるほど三本もあろうかと思われる薄黒い魚が、船腹に沿って悠々と泳いでいる。一斗樽を鼻先でゴンッゴンッとやってから姿を消した。退屈凌ぎにはいい余興だった。

 二日ほど港外に停泊してから、船は港内に入ったが、港外の船団が余りに多かったので、港の中は狭すぎて窮屈な感じだった。ここで一日がかりで、高射砲、上陸用船舶や食料なども積み込んだ。その上、工兵隊なども乗り込んできたので、船内は一層狭苦しい感じになった。一日くらいまた上陸させてくれるかと楽しみにしていたが、とうとうそれは許されず、三度船団を組んで南下を開始した。高雄港に入る時、湾の入り口の民家の前で、大きな日章旗を振っていた女の和服姿が印象に残った。

 高雄港で積み込んだ食料はかなり豊富なものだったらしく、それからは船内の給仕は相当良くなった。海は全く穏やかで、小波さえ立たず、文字通り油を流したようだった。来る日も来る日も青黒い大海原と白い雲と僚船の姿が見えて、少しも船は進まないのではないかと錯覚を覚えるくらいだ。船団は高雄を出る時増強されたらしく、遥か水平線の彼方まで船が続いて見えた。何隻くらいあるのか良く分からない。

出動(二)

 三日目辺りになってから、陸地に近づいたらしく海鳥の姿が見え始め、やがて薄い板を並べたような帆を張った支那ジャンク(※1)や、櫓を向こうに押してこぐ漁船などがちらほら見えてきた。この頃はもうすっかり船内は夏のような暑さで、兵隊たちはみんな甲板へ出て涼をとらなければならなくなった。僅か四日くらいの船旅でこうも温度が違うところまで来たことがまるで夢のようだった。

雨の振り出した日に、台湾の北端の山々が見え始め、程なく基隆港外に到着した。防波堤には外海の波濤がぶつかり、ものすごい飛沫を上げている。ここで駆逐艦の一隻は、右方へ舵をとって甲高い汽笛の音を残して船団と別れていった。おそらく高雄辺りへ直行したか、内地へ帰ったのだろう。そして残った駆逐艦の一隻が先導して、船団は一隻づつ狭い港口を通って港内へ入っていった。そこには陸軍旗をマストの頂上に掲げた貨物船や客船が無数に停泊していた。俺たちの隆南丸もその中に投錨したが、岸壁まではかなり遠いらしい。

 一夜明けると、今度はすばらしい晴天であった。周囲の山々は青々と樹木が茂り、名も知らない紅い花が所々に見られ、日傘をさした女の姿も一際眩しく見えた。雪の降っていた内地と比べ、余りに違いすぎる光景にまたまた夢を見ているのではないかと目を疑いたくなるくらいだった。

 ここで各部隊ごとに半数づつ二日間洗濯上陸を許された。街の中にある銭湯を開放して入浴をしたり、洗濯をしたり、街の婦人会からお菓子の接待もあった。入浴は名古屋の廠舎を出て以来だけに、全く文字通り命の洗濯だった。

 基隆の街はまったく支那人街で、大きな商店が軒を並べているが、その店の前が通路になっていて、雨が降っても傘無しで歩ける。越後の街の雁木通りと同じだ。商品は余り豊富ではないが、バナナ、パイナップル、砂糖キビなどがふんだんにあった。

 ここへ先発してきていた岩本軍曹が、スケッチブックを持っていて、綺麗に台湾風景を書いていた。俺も早速真似をしたくなり、文房具店で貧弱なスケッチブックと色鉛筆を買って船内でスケッチを始めた。これ以来、変わった風景や風俗をスケッチし続けてきたが、残念なことに最後の引き上げのとき、連合軍に取り上げられるというので全部焼いてしまった。

※1:中国およびその周辺特有の船の総称。特に中国の小型帆船は有名。

出動(一)

 これが故国の見納めになるかもしれないと思えば、何かこみ上げてくるものがあるはずだが、乗船したらすぐに船室の割り当てを受け、船上生活に必要な食器などを受領したり、見廻り品の整頓やらで、一人で感傷にふけっている余裕も無かった。

すぐにまた一番船尾の一区画へ移された。そこはスクリューの真上に当たっていて、酷く振動の激しい場所だった。その一番奥へ装具を押し込み、毛布を四つ折に敷いて、全員芋を並べたように寝る。何しろ着ているものは全部夏物で、毛布も一人一枚当りしかない。夜になったらその寒いこと。もちろん火の気は無く、あるだけの毛布を集め、それでも足りなくて敷いてある薄べりまでかけて鼠の子供のように並んで潜り込んだが、とうとう寝ることは出来なかった。

 そうこうしている間に船は出港し、翌日は下関海峡を通過する。軍の移動を隠すため、兵は絶対に甲板へ出てはならぬと固く言い渡された。しかし禁じられると余計見たくなるもので、甲板にしかない便所へ行くふりをして出てみたが、下関と門司の両岸がすぐそこに迫り、歩いている人間の姿もはっきりと見られた。これが故国の見納めになるかもしれないと、三々五々そこらにいた誰もが感傷的になっているらしかった。

やがて九州の山々が遥か後方に霞み、それもとうとう水平線の後方に没し去って、目に入るものはただ青黒い大海原と白い雲、それに前方警戒の駆逐艦が二隻、それに続く僚船が七隻だけとなった。こんな風景の中で唯一つの慰めは、船首近くの白波の間からスースーと飛び立っていく飛魚の姿だった。

 夜は完全な燈火管制で、太い煙突から吐き出される黒煙が不気味に船上を覆い、前後の僚船の姿も見えず、時折護衛の駆逐艦が船腹すれすれに通り過ぎるのが見られるだけだ。

 故国を離れて二日ほど経ったら、船内は急に暖かくなり、甲板から眺める海の景色は何の変化も見せないが、ぐんぐん南下していることがはっきり分かった。やがて、玄界灘のうねりが大きく船を揺らし始め、ぼつぼつ船酔いで苦しむ兵隊も出始めた。

船内の生活は酷く単調なもので、たまに船橋に立って、対潜、対空警戒勤務に就く他は殆ど仕事は無く、一日一回は全員甲板へ出て運動するが、後は船室内でゴロゴロしているだけだった。船には郵便物も届かず、ラジオも無く、自分たちはいったいどこへ運ばれていくのかさっぱり分からず、もちろん読む本とて無かった。

 食事は陸上の兵舎にいたときよりも更に悪く、生ものは殆ど無くて、凍り豆腐や若芽〆の味噌汁、魚の煮付けのお菜に、塩水で洗って炊いたしょっぱくて黒い麦飯だ。その代わり二日に一回くらいは金平糖などの下給品が配られた。これが兵隊たちにとっては唯一の慰めだった。