バンドンで面白い目をしてきたので、マニラ市内でもまた贅沢な生活が出来ると喜んだのもつかの間、装備を陸揚げし終わるとすぐに市内を通り抜け、ルソン島中部の小都市「カバナツアン」の周辺に駐屯し、内地からの補充を受けて師団は再編成されることになった。我が部隊は「ゴンザレス」という部落に、前に駐留した部隊の残した竹とニッパ椰子で兵舎を作り宿営することとなった。この付近には水田はなく、畑も少ないので、野菜が手に入りにくく、毎日甘藷の苗に似たものと南瓜ばかり食したのには閉口した。しかし、果物はマンゴー、バナナなど豊富で、現地人商人が酒堡と呼ばれる商店で安く売っていたので、たっぷり食べられた。酒類も豊富で安く、特にジンが旨かった。
ここに来て一番嫌な感じを受けたのは、日本軍を本当に信頼するものはいなくて、みんな公然とアメリカが最後の勝利を得て戻って来ると言っているくらいだから、金銭づくの取引以外の好意というものが認められないことだった。それだけでなく、密かに米国側と連絡を取っているゲリラ隊が出没して危険でもあったので、部隊間の連絡など単身では絶対に出られないと言われていた。
一度マニラまでトラックで外出したことがあったが、さすがに首都だけのことはあった。旧王城付近は壕を巡らした建物などもあり、東京の宮城を小型にしたような建造物もあった。街はきれいで、立派なレストランや映画館もあった。また、現地人、華僑、朝鮮人などの娘を大勢置いた公私の慰安所も軒を並べていた。ここでも現地の女は、兵隊を小馬鹿にした態度がはっきり認められて不快だった。
ここにいつまで駐留するのかさっぱり分からないが、とにかくすぐに移動する気配はなく、内地から補助人員がかなり大勢来たので、我々もどうやら古年兵扱いを受けられるようになった。補助兵はみんな若い二等兵ばかりで、我々から見るとまるで子供っぽい連中ばかりだった。この部隊は、召集兵ばかりで編成されたから、新旧の間の厳しい規律というものがなかった。入ってきた初年兵達はすぐに気安くなって、古年兵と友達みたいになってしまい、兵営特有の陰惨な私刑みたいなことは、一つも行われず、極めて和やかなものになったのは一番嬉しかった。
ここで、部隊長の大田中佐は内地へ転勤になって帰還し、代わりに朝鮮軍にいた沼少佐が赴任した。この人は二才は若いがいたってくだけた人で、その歓迎会食の時など、兵隊の一人一人に酒を注いで回ったりした。そのうちに、現地人の宣撫のためといって、タガログ語の講習を師団の参謀部がやることになり、部隊から選ばれて二週間ほどカバナニソアンに派遣された。各部隊から一人から四人ぐらいが選抜され、また選ばれたものが、二十人ほど集められて現地人の女の教師から、会話の訓練を施された。僅か二週間くらいだったので、実用とまでは行かなかったが、現地人との心のつながりにはかなり役に立ったと思われた。
部隊長が内地帰還になったことから、兵隊たちのうちにも、四年兵は帰還とか、五年兵までだとか、本当らしい復員話が出たが、結果は何の根拠もないデマだった。そしてまたまた他へ転進することになった。この時、思いがけない福音だったが、私物を内地へ送る便があったので、一応憲兵の検閲を受けた上で、靴、パジャマ、写真、椰子の実の煙草入れなどを送った。