カテゴリー別アーカイブ: 第七章 ルソン島転進

ルソン島転進(三)

 バンドンで面白い目をしてきたので、マニラ市内でもまた贅沢な生活が出来ると喜んだのもつかの間、装備を陸揚げし終わるとすぐに市内を通り抜け、ルソン島中部の小都市「カバナツアン」の周辺に駐屯し、内地からの補充を受けて師団は再編成されることになった。我が部隊は「ゴンザレス」という部落に、前に駐留した部隊の残した竹とニッパ椰子で兵舎を作り宿営することとなった。この付近には水田はなく、畑も少ないので、野菜が手に入りにくく、毎日甘藷の苗に似たものと南瓜ばかり食したのには閉口した。しかし、果物はマンゴー、バナナなど豊富で、現地人商人が酒堡と呼ばれる商店で安く売っていたので、たっぷり食べられた。酒類も豊富で安く、特にジンが旨かった。

 ここに来て一番嫌な感じを受けたのは、日本軍を本当に信頼するものはいなくて、みんな公然とアメリカが最後の勝利を得て戻って来ると言っているくらいだから、金銭づくの取引以外の好意というものが認められないことだった。それだけでなく、密かに米国側と連絡を取っているゲリラ隊が出没して危険でもあったので、部隊間の連絡など単身では絶対に出られないと言われていた。

 一度マニラまでトラックで外出したことがあったが、さすがに首都だけのことはあった。旧王城付近は壕を巡らした建物などもあり、東京の宮城を小型にしたような建造物もあった。街はきれいで、立派なレストランや映画館もあった。また、現地人、華僑、朝鮮人などの娘を大勢置いた公私の慰安所も軒を並べていた。ここでも現地の女は、兵隊を小馬鹿にした態度がはっきり認められて不快だった。

 ここにいつまで駐留するのかさっぱり分からないが、とにかくすぐに移動する気配はなく、内地から補助人員がかなり大勢来たので、我々もどうやら古年兵扱いを受けられるようになった。補助兵はみんな若い二等兵ばかりで、我々から見るとまるで子供っぽい連中ばかりだった。この部隊は、召集兵ばかりで編成されたから、新旧の間の厳しい規律というものがなかった。入ってきた初年兵達はすぐに気安くなって、古年兵と友達みたいになってしまい、兵営特有の陰惨な私刑みたいなことは、一つも行われず、極めて和やかなものになったのは一番嬉しかった。

 ここで、部隊長の大田中佐は内地へ転勤になって帰還し、代わりに朝鮮軍にいた沼少佐が赴任した。この人は二才は若いがいたってくだけた人で、その歓迎会食の時など、兵隊の一人一人に酒を注いで回ったりした。そのうちに、現地人の宣撫のためといって、タガログ語の講習を師団の参謀部がやることになり、部隊から選ばれて二週間ほどカバナニソアンに派遣された。各部隊から一人から四人ぐらいが選抜され、また選ばれたものが、二十人ほど集められて現地人の女の教師から、会話の訓練を施された。僅か二週間くらいだったので、実用とまでは行かなかったが、現地人との心のつながりにはかなり役に立ったと思われた。

 部隊長が内地帰還になったことから、兵隊たちのうちにも、四年兵は帰還とか、五年兵までだとか、本当らしい復員話が出たが、結果は何の根拠もないデマだった。そしてまたまた他へ転進することになった。この時、思いがけない福音だったが、私物を内地へ送る便があったので、一応憲兵の検閲を受けた上で、靴、パジャマ、写真、椰子の実の煙草入れなどを送った。

ルソン島転進(二)

 港内にいるとき、ニューギニア方面に行く大型輸送船とすれ違った。その船には兵隊が満載されていたが、あの敵機の跳梁する南海の島へ追いやられる同胞に対して、手を合わせたい気持ちで見送った。更に一週間ほど退屈で不安な航海が続いた。あるときは、敵船あらわるの警報に船内は大騒ぎとなり、救命胴衣を着けるやら、装具を整理するやら大変だったが、鯨の誤認と分かり、大笑いの一幕もあった。いよいよ明朝マニラ湾に入港という夜は、もっとも危険な海域とあって、全員非常体制で警戒に当たったが、幸いに何事もなく、夜明けと同時に船団は一斉にマニラ湾に入り、横隊形となって進んだ。

 初めて見るコレヒドール島は、かつての激戦を思わせる生々しい砲弾の跡や、痛々しい米軍施設も見られた。波打ち際には、乗り上げた舟艇や輸送船の赤い腹も見えていたが、マニラ湾はまったくも無傷で、紅い灯、青い灯がともって、まったく別世界だ。半年以上も電灯もない暗黒世界に暮らしてきた後だけに、一層その印象は鮮烈だった。

 入港した翌日には上陸を開始したが、街には商品が豊富にあり、人々の服装は華やかで、どこに戦争があるのかと思うほどだった。一方では、日本軍人の姿がすごく多く目に付いたのと米軍の捕虜が素裸身に越中褌を締め、バクバクの靴を履いて、埠頭で荷役をさせられている姿が目に入った。やはり今は戦争中であるということを、いやというほど身近に感じられた。

 かつて支配者としての優位にあったことから、人を人とも思わなかったであろう米人が、現地人と同じ皮膚の色をした日本人に馬同様にこき使われているのだから、さぞや悔しかろうと思われるのだが、本人たちの顔をを見るとそんな感じはまったくといっていいほどなく、極めて朗らかに立ち働いていた。もうすっかり諦めているのか、あるいは必ず米国が勝つという将来を確信しているのか、又は民族そのものの楽天的性格からきているのか、そのいずれも含んでいるのかもしれない。

ルソン島転進(一)

 昭和十八年四月初旬、師団生き残りの将兵は、たった一隻のボロ貨物船に詰め込まれて、たった一隻の駆潜艇に守られて、半年間住み慣れたブーゲンビル島を離れた。この頃は既に敵の制空権下にあり、海上は敵船の目が光っていたが、幸いにして一度も脅かされずに一昼夜の航海でラバウル港にたどり着いた。

この船には撃墜した敵機の搭乗員二人が両手を縛られて乗せられていたが、どこへ連れて行かれたのかその後のことははっきりしなかった。三千名近い人員を五千トン級のボロ船一隻に詰め込んだのだから、全員が背嚢に寄りかかってしゃがみこむだけで、とても横になるなんて出来ない有様だった。もしあれを敵機または敵船に発見されて攻撃されていたら、一人残らず海底の藻屑となったであろう。まったく思い出しても皮膚にあわ立つ思いだ。ラバウル港に入った船は、港の入り口に近いコーポという地区について、一旦そこに上陸し、幕舎を作って待機することになった。ここは、湾内を見下ろす丘の上で、椰子の林が続き、実に景色のよいところだった。濾水車四台はソロモンへは行かず、ずーとここで待機していたので、これで全体隊員ガ揃ったわけだ。やはり何もすることがないので、毎日幕舎でゴロゴロしていた。時々は、ひるまでも敵機が来襲することがあったが、我が方には、もう殆ど戦闘機はないということだった。それに、ニューギニア方面の戦況もいよいよ悪化していた。この方面からも、生き残り将兵を満載した船がよく痛々しい姿で港に入ってきた。

コーポは、ラバウルの市街までは二里以上も離れたところで、ろくな商店もなかったが、軍の慰安所は一ヶ所あった。そこには駐屯部隊が日割りで行くようになっているということだったが、我が部隊は通過部隊なので行くことはなかった。作業のときに通ってみたら、なんと飯盒持参の兵隊が、延々と列を成して順番を待っていた。その脇を、グデングデンに酔っ払った大佐が副官らしい若い将校に支えられてヨタヨタと通って慰安所に入っていった。なんとも浅ましい姿であると吐き出したい気持ちだった。

 わずか二週間くらいここにいたが、注射を受けて寝ていた日が多かった。五月になってまもなく、再びボロ貨物船(アデン丸、六千トン)に鮨詰めにされて長い航海に就いた。乗船人員はジャワへ渡るときの三、四倍多く、とても甲板に小屋を作って涼むなどの芸当は出来はせず、蒸し暑船底でハアハア言いながら寝ていた。十日間ぐらい走って船団(といっても三隻と護衛駆逐潜艇二隻だった。)はパオラ湾に入ったこの島はさんご礁に囲まれ、港の入り口は実に浅く一隻ずつやっと通れるだけの水路が開いてあった。水は実にきれいで、船の上から水底のさんご礁や魚がよく見えた港といってもたいした施設はなく、停泊の船も少なかった。ここで一日くらいは上陸許可されるのだろうと期待したが、とうとうその望みはかなえられずに再び航海の途に就いた。このころ、この周辺の敵潜の暗躍は実にものすごいものでパラオ港入り口には、既に何隻かの輸送船が沈められているということだったが、無事通過することが出来た。