カテゴリー別アーカイブ: 第九章 雲南作戦

雲南作戦(十三)

 その日の夕方には代わりの機関車が迎えに来て、うまくそこを切り抜けることはできたが、その先では、鉄橋が落とされていて渡れないので、川向こうまで行軍ということになった。やっと走り出したと思ったら、今度はシッタン川の鉄橋が爆撃でやられて渡れない。それで仕方なく列車から着物や馬を下ろして行軍となった。やはり、昼はジャングル内の部落に隠れて夜だけ歩くのだが、雨の心配は無く、この辺りには、地上の敵は全然いないことが分かったので、みんな馬の手綱を伸ばして、鼻歌混じりで、至極のんびりした旅をした。

 シッタンの渡河は、友軍船舶兵の渡し舟で、人馬車両まで輸送するから、大勢の現地人を使って、賑やかにやった。ここでも男女とも、物を頭に載せて運ぶのだが、男が四人がかりで女の頭に大きな荷物を載せてやるとこれを軽々と運ぶ。これには驚いた。

 この作業の真っ最中に、敵機の来週で大慌てだったが、タイや仏印あたりの遠距離爆撃の帰りらしく、高高度の編隊のまま通過したので助かった。川を渡ったらまた、列車に乗せられてビルマ東部の大河サルライン河まで行き、ここでまた列車を捨てて渡し舟に乗り、モールメンにでた。この辺りはビルマの玄関口に当たり、鉄道と海上の両面からの補給基地なので、ごった返していた。渡し舟は筏をポンポン船に引かせていくが、こんなところに一機でも敵機が来襲したら、どんなことになるのだろうと、まったく尻がむずむずする思いだった。ここでも幸運にも敵襲を受けることなく、ひとまず安全地帯へ後退した感じでホッとした。ここからは日本軍の敷いた鉄道で、機関車も貨車も日本製なので、まるで内地へ戻ったような錯覚に陥りそうだった。やはり、昼間は敵機を避けてジャングルに隠れ、夜だけ走り、タイに入るまで二日程かかってしまった。一年前に通ったところを引き上げたが、夜だけしか走らないので、カンチャナブリーの街もどんなだったかさっぱり分からず、夜明けにバンコックの貨物駅へ到着した。ここはまた、ビルマとは違った暑さで、何もかも焼け付きそうだ。その暑くて埃っぽい街を、馬の背にゴタゴタした荷物をくくり付けて進む我々の行列は、まるで避難民のような哀れな姿で、到底軍隊などとはいえないものだった。

 バンコックの町は、戦禍に荒らされた跡は殆ど無く、商品なども案外豊富にあったが、何しろビルマから来たばかりでは金も使えず、物交するほどの物も持っていないので、どうすることもできず、店頭に並んだ果物やお菓子を恨めしげに横目でにらんで通るだけだった。市内の空兵舎に一旦落ち着いたが、じきに模様が変わって、市街地から、かなり離れたニッパ椰子の仮兵舎に草履を脱いだ。この辺りは民家もあまり無く、まったく何の楽しみも無い生活だった。そのうえ、夜になると決まってバンコック市内の鉄道工場や港に対する敵の空襲があり、その都度馬を引き出して、兵舎からかなり離れた原っぱに逃げた。幸いここでも、直接空襲を受けたことは無かったが、そう遠くないところにある鉄道工場は、毎夜のようにやられ、超低空から焼夷弾を落としていく敵機の鈍い銀色の胴体は、不気味に見えた。

雲南作戦(十二)

 その後、残された本体も、長くはそこにとどまらず、程なく仏印方面軍に編入されて、その地域の守備に当たるという幸運な布令が来た。今度は旅程が長いので、全員が汽車輸送と決まった。すでに車両は残り少なになっているので、部隊の方で手を回し、輸送参謀に何か贈り物をしたとかで、案外楽に乗れるだけの貨車の割り当てを受けることができた。しかし、我々騎馬隊は、馬と一緒に貨車に載せられて、馬首の下で食事をし、わらとまみれて寝るのだ。荷物扱いでなく、馬並みのお客ということになった。

 列車といっても、昼間は敵機の襲撃があるので走れず、夜だけ走って、夜が明けるとまず次の駅へついて、車両を疎開させ、人間と馬だけが降車し、近くのジャングルに入って、飯を炊いて食い、昼寝をし、夕暮れにまた車に乗り込むというきわめてのんびりした旅だった。

 ある朝、少々時間が遅れて、目的地の駅に入る前にすっかり夜が明けてしまった。そのため、敵哨戒機に見つかって銃撃を受けたことがあった。我々は貨車だから扉を閉めていると、夜が明けても中は暗いから、いい気持ちで寝ていると、機関車に乗っていた現地人の助手が大声で、

「飛行機、飛行機。」

 と怒鳴るので、驚いて貨車から飛び出して乾ききっている田圃(タンボ)を蜘蛛の子を散らすように逃げた。どこまで逃げても田圃では遮蔽物も無い。しかし、狙われるのは列車だから一歩でも遠ざかることが被弾から免れるただひとつの途の訳だ。二百メートルくらいは転げるように夢中で走って、畦(アゼ)の陰に伏せ、恐る恐る辺りを見回すと、遠く、近く、転々と伏せている兵の姿が見える。そして遥か西の空に、初めて見る敵ボーイングB二十九と思われる四発大型機が一機現われ、悠々と頭上を通過する。するとまた一機という具合に、一定の間隔を置いて、まるで我々など眼中に無いといった落ち着き払った姿で飛び去っていくのだ。

 こんなことならあわてて飛び降りることも無かったといささか拍子抜けの態でいると、何ぞ図らん、敵機はまるで別の方向から地面すれすれの超低空で現われ、あっという間に、停車している列車を拝み撃ち機関砲を浴びせて飛び去った。機関車は湯気を白く吐き出し、使い物にならなくなってしまった。こうしておいて、また引き返して爆弾でも見舞われてはやりきれないと思ったが、幸いにそれっきり姿を見せなかった。機関車をやられてはどうにもならないので、ひとまず全員がその近くの部落に退避して、寝てしまった。

雲南作戦(十一)

 昭和二十人の元旦は、この宿舎で迎えた。もう三ヶ月以上も一滴の雨も降らず、地上のあらゆる生物が生気を失ったように埃にまみれているし、戦局はいよいよ我方に不利らしく、たまに軍司令部から配布される官報、昭南辺りで発行される邦字紙にも、南太平洋ではラバウルの近くまで敵軍が侵入し、印緬国境のインパール作戦は失敗して、我軍は後退を余儀なくされているらしいということだった。だというのに、ここの正月は極めてのんびりしたものだった。まず、元旦の早朝に演習の出動の命令があり、初めのうちは本物と思わせるような緊迫感があったが、やがて演習と分かり、終わってからお正月三日間は「朝酒、昼酒、晩酒よし。」という部隊長の許しが出て、それこそ部隊を上げて乱恥気騒ぎをやり、威勢の良い連中は樽御輿を作って担ぎ出し、裸身でワッショ、ワッショとお祭り騒ぎをやったりした。酒は軍から配給されるほかに、現地人から軍票で結構手に入った。酒が足りるとその後は女というのが決まった男の欲望だが、ここではどうにもその方は工面がつかないようだった。自動車をとばして、トングーの街に行くという手もあったが、もう自動車行軍も危険で、うっかり出て行けない状態だった。敵機の目が絶えず光っていて、この宿舎にも時折敵哨戒機の姿が見えたが、幸いにも爆撃も銃撃も無かった。

 そんな呑気な日も長く続かなかった。お正月も過ぎて間もなく、敵有力部隊が「メイクテラ」というビルマ北部の要地へ落下傘で降下し、空中補給により、次第に勢力を増強していた。イワラジ川を挟んで、地上から押し寄せてくる敵大部隊と対峙している友軍の後方を、この落下傘部隊が脅かすにいたったので、我第二師団の一部はそっちへ急派されることになった。歩兵第十六連隊を主力として、各特科部隊の一部がこれに従うことになったので、我部隊からも、広瀬大尉を長とする小隊を編成した。これには騎馬部隊も一部さかれるわけだが、今回も幸運なことにその編成から外れた。

 いよいよ今日の夕方には出発という日は、部隊を上げての送別の宴を張ったが、戦局苛烈を極めるとき、前線へバックして行く広瀬隊の面々は、さすがに沈みがちだった。それも道理、今度は全滅を覚悟しての大作戦に参加するのだ。広瀬本隊は自動車で行くが、それにつけられた荻野伍長以下の騎馬分隊は、その日の朝、宿舎を発っていった。出発間際に、衛生兵の井上上等兵がやけ酒を飲んで、べろんべろんに酔っ払ってしまって歩けそうもないほどくだを巻き、有沢一等兵も姿が見えないなど一騒ぎあったが、結局みんな揃って出て行った。その後で、重要な連絡事項を忘れたということで、伝令を命ぜられ、馬で追いかけた。夕暮れの平原をとぼとぼと行く、わずか十数人の騎馬部隊に追いついて、その任務を果たしたが、そのときの彼ら分遣騎馬隊の影の薄い、寂しそうな姿は、今でもはっきりと眼底に残っている。実際のところ、あのときの印象では、再びこの戦友達とまみえる日が来るとは思わなかった。

南雲作戦(十)

 この谷もかれこれ一週間くらいはいたろうか、もう月日もよく覚えていないが、いよいよ後方へ転出する命令が出て、移動と決まった。幸か不幸か下痢と咳で休んだ後が十分に回復していなかったので、自動車に乗って本隊に先行することになった。そして、この前は、敵弾に脅かされながら、暗夜馬を引いて上った道を、今度は自動車に揺られて降りていったが、まだ龍陵を放棄したわけではないらしく、小銃や機関銃を担いで、一歩、一歩絶望的な表情で登ってくる他の部隊の若い兵士の姿は、まったく悲惨な前途が予想されているだけに、悲しかった。

 一ヶ月足らず支那の領土へ足を踏み入れただけで、またもと行った土地を引き返し、ビルマ領に戻って、山の中の部落に一時駐留することになり、その設営隊として自動車で先行したわけだ。その部落は、割合に親日的で、空いている家屋を提供してくれた。ここでは炊事班に加えられて、野菜洗いに川へ出たり、水を汲んだり、まるで女の仕事みたいだった。しかし、食物は腹一杯、しかも美味いものを食べられたから、山での不満は取り戻すことができた。その上、敵機の来襲も無く、まったく戦渦の外に出たようなもので、いたってのんびりしたものだったが、ここも長く留まっていられず、すぐに後方へ転進することになった。この時も運がよく自動車で先行することになった。

 このころはもう、ビルマ全域がすっかり敵の制空権下にあって、昼間の行動は一切禁じられていたので、夜だけ行軍し、ラシヲを通り、メイショウも過ぎて、トングー近くの桐林の中に宿営することになった。ここは前に、日本軍が急造の宿舎を立てて駐留していたが、部落も無く、井戸も無いところで、水には非常に不自由した。山で下痢をしたおかげで、馬部隊の席を外れて、本部要員になったので、今度は松浦中尉の当番を命ぜられた。部隊一の憎まれ将校の当番とは、少々酷すぎると思ったが、馬で苦労するよりはまだましだろうと我慢して勤めた。朝夕の毛布や蚊帳の取り外しから靴磨き、洗濯とまるで女中の仕事である。妻子ある男のやることではない。

 ここへきて、半年振りで郵便物の差出を許された。はがきや手紙をかなり書き、妻や実家へ出す手紙には、この辺りの風景を写生したものなどを入れたのだが、これが最後の便りになったけれども、はがきだけしか届かず、どっちでもいいようなところへは届いて、一番待っている妻や兄のところへは何も行かないという奇妙なことになってしまったことは、復員後にわかった。

雲南作戦(九)

 そうこうするうちに、いよいよ龍陵を放棄するということになったらしく、我部隊も、山ひとつ隔てた谷へ下がることになり、馬を引いて間道を下りてまた、そこで横穴生活を始めた。幸せなことに、食料だけは不自由しなかった。ひとまず安全地帯らしいところへ下ったという気の緩みからか、下痢を起こして寝込んでしまった。その代わり、龍陵からの荷役には行かずに済んだ。

 ビルマ駐屯地バセインをたってから、一ヶ月も全然体を清めないので、ほとんどの兵が虱に悩まされ始めた。最初のへその辺りが妙にむずかゆいと感じたが、だんだんと全身にわたるようになり、シャツを脱いで、襟の辺りの縫い目を開いてみるとうじゃうじゃと小動物がいた。洗っても取れないが、石の上で叩き落すのが一番良い。幸いに、この谷にはきれいな小川が流れていたので、思う存分水浴することができたし、虱も何回か洗濯して叩き落すうちに退治されてしまった。

 我々はこうして、やや安全地帯に下ってのんびりすることができたが、まだ龍陵周辺の山々には、傷ついて動けない兵士が無数に残っていると聞き、身の引き締まる思いがした。それにしても、将校どもが力水に入れる筈のウイスキーの頭をはねて、酒宴を開いているのを見るとむらむらとして、手榴弾を打ち込んでやりたいような憤りを感じた。日中もほとんど壕の中から一歩も出ず、地蔵様のように座ったきりで、上げ膳据え膳でいた部隊長が、大声で歌を歌ったりしているのを聞くと、思わずそんな気にとらわれるのであった。そんなていたらくであったのが、師団へ出される戦闘詳報には、常に陣頭に立っていたのだから、呆れ果ててしまう。なお笑止千万なことに、山の上に配置した小銃だけの対空監視班が、敵戦闘機を一機撃墜したことになっていた。その監視班にも加わったことがあったが、こっちで一発でも打つと、百発撃ち返されるから、撃つなと言われていた。したがって、木の下に隠れているのが精一杯だったのだが。

雲南作戦(八)

 終日頭上を砲弾が飛び交い、「空を飛ぶのは敵機と決まっている。」と決めているとき、どうした風の吹き回しか、友軍の戦闘機が五機ほど飛んできて、龍陵の向こうにいる敵の陣地を銃撃したことがあった。このときばかりは翼の日の丸が目に滲むほど鮮やかに見え、みんなが狂気のように手を振れば、飛行機も友軍部隊を見て、翼を数回降って、南の空へ消えていった。敵の制空権下の戦場にやってきた残り少なの友軍機に対して、無事に基地まで帰ってくれと密かに祈った。これに勢いを得たのもつかの間のことだった。その後は味方機は一機も見えず、後方からの補給も細々、せっかく我々の前面に進出した野砲四門も、一発も撃たずに退却してしまう始末。また師団戦闘指令所もその日に敵の探知するところとなって、B二十五の大編隊で集中爆撃を受け、これまた退却の余儀なきに至った。そして、その後も敵戦闘機は、頭上を我もの顔に乱舞し小出町出身の野上兵長が、火を吹く自動車からキャブレターを外して、他の故障車に取り付けて脱出し、部隊長に褒められたこともあった。

 戦闘は、日に増し苛烈となり、ふた山、み山を占領していた歩兵部隊も退却してくる始末となり、我々も仮縫帯所どころではなくなって、後方の山の陰に隠れてしまった。そんな悪状況の中でどこから紛れ込んできたのか、若い農婦が怯えて手を合わせてきたので、腹が減っているのだろうというので、飯を与えたが食べもしない。それを大原少尉などが見て、敵のスパイかもしれない、こんなところへ我々がいることが知れたら、また砲弾が飛んでくるから、捕まえておけといったので、誰だったか、形式的に縄で両手を縛ったが、あまり悲しそうでもなく、大人しくしているので、どうやらこれは戦争の大騒ぎで、頭がおかしくなったのだろうということになった。話してやったが、その女が背中に斜めに背負っていた風呂敷包みの中は、生きた赤ん坊だったのには驚いた。

雲南作戦(七)

 輜重部隊の給水活動は、近くの小川から汲んだあまり清潔ともいえない水に、砂糖とウイスキーを少量入れて、一斗入りの水嚢に注水し、これを背負って兵隊が、五、六人一組で、下士官か兵長を長とし、夜間味方陣地に忍び寄り、壕内の兵隊の水筒に水を入れてやるわけだ。俺は三回ほど出た。あるときは横尾兵長を長として、三つ目の山の頂上陣地まで行った。山と山を繋ぐ堀を通って真っ暗な山へ入っていくわけだが、至る所に死体があって、それに躓いたり、踏みつけたり、死臭はといえば鼻をつき、なんともいえない鬼気迫るものだった。やっと山頂に達し、一人ひとりの水筒に満たして回った。だが、そこにも負傷して怯えている兵隊があっちこっちにいたし、何とも手の下しようが無いと呆然として語る軍医の顔も見られた。事実一人づつやっと這い上がってきたこの陣地から、負傷で動けないものをおろすことは、不可能に近いことなのだ。その帰りに、迫撃砲の至近弾を食らって、爆風を顔に受け、ひっくり返る目にあったが、幸いに傷を負った者も無く、逃げ帰った。

 またあるときは、友軍守備部隊の既に撤退した龍陵の倉庫から、乾パンや糠味噌を夜間運び出す使役に借り出された。鼻をつままれてもわからないほど真っ暗な泥んこ道を通って、荷物を運ぶ苦労は、並大抵でなく、何度も転がって全身泥まみれになって、やっと公道上で待つ輜重隊の自動車に積み込む。一人三回づつとなっていたのを一回でやめて逃げ帰ってしまった。それが自分だけの横着で辞めたのではなく、班長の命令で逃げるのだから面白いものだ。山頂の陣地で敵と相対し、砲台にさらされている戦闘部隊の連中、ことさらに負傷して動けず、泣いている同胞のことを思えば、こんな怠慢はとても許されないわけだが、戦場とは、そんな殊勝な考えなど吹き飛ばすほどに惨憺たるものなのだ。その翌日もまた、荷役を命ぜられたが、体が悪いといって断ってしまった。この使役でも、敵の流弾に当たって星野という初年兵が死んだ。

 ラングーンから苦労して連れてきた馬は、何の役にも立たなかった。村はずれの草地につなぎっぱなしにして水もろくろく与えなかったので、とうとう俺の馬は疝痛(センツウ)を起こして死んでしまった。わずかの間だったが、自分で扱っていた馬に死なれたときは思わず泣けてしまった。自分の怠慢から、この物言わぬ戦友を殺したという良心の呵責に数日間悩まされた。

雲南作戦(六)

 この日、前線に進出していた舞台本部から、石井兵長が連絡に来た。そのときの話では、師団の平松参謀が前線視察の途中、友軍の砲弾の照準を謝ったため、彼のすぐ近くで炸裂した結果、戦死したということだった。しかし、わが軍は、龍陵を見下ろす敵の陣地をひと山、ふた山、み山と占領し、篭城軍を救出することに成功したらしいという話もした。

 それからまた大急ぎで装具を整えて、昨夜下ってきた通りをまた前線に向かって進んだ。進むにつれて、道路の脇や山腹の壕に、敵味方の死体がゴロゴロしていた。中にはまだ十五、六才くらいかと思われる敵の少年兵の死体が衣類を剥ぎ取られ、顔は雨に打たれていた。またわけのわからないうわごとを口走っている味方の、負傷した痛ましい姿など、とても正視できない情景もあった。前夜、我々が休憩していた切り通しのすぐ近くで、惨憺たる戦闘が行われていたのだ。

 本体は、龍陵盆地を見下ろす小高い山の上に位置していた。近くに曲射砲の陣地があって、そこの将校がいうには、砲はあっても小銃が一丁も無いから、もし敵襲を受けたらどうにも処置なしだから、そのときはよろしく頼むということだった。しかし、我々とて騎銃がわずかばかりで、他人の応援どころではない筈だった。すぐにその山を降りて、龍陵盆地に進出して仮縫帯所と給水基地を設営した。そこは戸数十戸あまりの部落で、一戸だけ土塀を巡らしたやや上等の家があった。そこに縫包所をおき、我々市輜重隊は、その部落の先端とも言うべき農家を宿舎として、占領した「山」で頑張っている戦闘部隊に、力水と称してウイスキーと砂糖の入った水を補給してやることになった。この辺りは田があって、稲はもうかなり実っていたはずだったが、無残にも馬糧に刈り取られてしまい、家には何者も残さず荒らされていた。先に通過した友軍部隊か、それとも敵部隊が撤退するときの仕業か、どっちにしろ戦場となった部落は、実に哀れな姿をさらしていた。

 またここは、友軍砲兵陣地の前面に出ているので、十五サンチ流弾がシュルシュルという緩やかな唸りを立てて龍陵の向こう側の敵陣に飛んでいった。しかし、残念ながら弾薬の補給が少ないため、一門につき何発と配給されるためを大切に撃っているのだというだけに、すぐ砲撃をやめてしまうのだ。これに引き換えて敵さんの方は、朝から晩まで明るい間は絶え間なく我方の陣地を撃ってくる。したがって、我隊の一切の行動は夜間に限られ、昼間は一歩も外へ出られない状況だった。

 ある日の夕方、砲撃もやんだと安心して、部隊本部で夕食の支度に取り掛かったら、一発直撃を喰らい、倉田兵長、安部伍長即死、小柳、柳沢に上等兵負傷という大損害を受けてしまった。それで恐れをなして、そこから少し離れた崖の陰に穴を掘って入っていたが、またまたそこにも一発直撃が来て、経見上等兵が即死するという被害を受けた。それでも我方はじわじわと前進して、我々のすぐ前に野砲が四門ほど進出し、師団の戦闘指令所がさらに前面の部落に前進した。仮縫帯所には毎夜何人かの負傷兵が担架で収容され来たが、応急手当を加えた上で後方へ自動車で下げられていった。中には収容されて気が緩むのか、痛い、痛いと手放しで泣き喚く兵隊もいた。

雲南作戦(五)

 こんなことがあって、まったく無我夢中で退却し、どうやら山一つ隔てた安全地帯へ来た頃、夜はほのぼのと明けてきた。明るくなってみると、この公路は山々の間を縫うように蛇行しながら、延々と続き、遥か目の下まで白く見えていた。この道路を両面から狙い撃ちする位置に敵の陣地が無数にあるわけだ。これを歩兵部隊が一つ一つ潰して進んでいるわけだが、最も近い堅塁、小松山陣地はまだ戦闘中で、すぐ目の下によく見えた。

 この付近の山は、日本内地の山のように、尾根続きの山脈をなしてるのではなく、一つ一つが独立して双子のように並んでいた。その中でひときわ高く、丸い頭をのぞかせているのが小松山で、頂上に砲座があり、その下を幾重にも鉄条網が張り巡らされている。その下に、友軍攻撃隊が取り付いているらしく、白い銃煙がパッパッと吹き出すのがよく見えた。また、手前の山にある友軍重砲陣地から打ち出す十五サンチ流弾が、山頂で炸裂し、ものすごい土煙を上げていた。一方的の砲兵陣地からは、麓に取り付いている友軍攻撃隊に砲撃が加えられ、これまた盛んに土煙を吹いている。

 こうして高いところから見下ろしていると、演習を見ているような錯覚を起こすが、実際にはその一発毎に何人かの尊い人命が損なわれているのかもしれないのだ。それにこっちもいつまでもこの光景を見ているわけにはいかない。本当の安全地帯へ引き上げるには、さらに敵の射程にさらされた山の斜面を通過しなければならなかった。そこでまた一人ずつこの危険地帯を通ることになったが、今度は明るかったのでいっそう恐ろしさが増し、ともすると足がすくむような恐怖に襲われた。しかし、どうやら全員逃げおおせることが出来た。そして、丸一日何も食べなかった空腹を満たすために、携帯燃料で飯を炊き、缶詰をお菜として暖かい食事をしたが、その美味かった事、おそらく前従軍期間を通じて、最高の気分だった。だが、何としても眠る場所が無い、みんなうずくまったままうとうとしていた。

雲南作戦(四)

 道路の両側の高所に歩哨を立てて人も馬も声を潜めて休んでいたのだが、雨はますます土砂降りとなり、道路は川になってしまった。その流れを堰き止めて寝転んでいる兵隊もあった。温度はぐんぐん下がり、びしょ濡れの体ではぞくぞくしてとても眠るどころではないはずだが、まったく疲れ切っているのだろう、ぐうぐう鼾(イビキ)をかいているものもいる。このまま眠り続けたら、おそらく凍死をするのではないかと思われる寒さだ。中には寝ている牛の背中にへばり付いて暖を取っているものもあった。そんな状況下に歩哨に立たされたが、すぐ近くで戦闘が行われるらしく、機銃の音がカタカタ、ドンドンと続き、時々は曳光弾が鋭い尾を引いて、頭上をかすめて飛んでいく。どこから敵が襲撃してくるか分からない逼迫した空気にもかかわらず、全身を襲う睡魔と闘うのに精一杯で、敵に対する警戒どころではなかった。目を大きく見開き、歯を喰いしばっていても、いつの間にかウトウトと気が遠くなり、抱いた銃の重みでクラっと前に体が傾いて、はっと我に返るという案配で、敵襲の恐ろしさも、全身びしょ濡れの悪寒も感じなかったほどの眠気だった。

 こんな状態で時間の経つのも知らずにいるとき交代が来た。その頃はいよいよ彼我の銃声は激しくなり、しかもだんだん近づいてくるので、友軍が苦戦して後退してくると判断した櫃間中尉は、ひとまず全員退去を命じ、大急ぎで装具を牛馬の背に括り付けて一斉に退去を始めた。ところがこの騒ぎを探知した敵は、山の反対側から迫撃砲の追い討ちをかけてきた。俺は幸いに足の速い馬を引いていたので、その首にぶら下がるようにして先頭辺りを走って後退したが、ドカンドカンと連続的に炸裂する砲弾の爆風に煽られ、全く生きた心地も無かったが、無事に逃げおおせた。しかし、のろまの牛を引いて最後尾を逃げた桑折上等兵は、砲弾の破片で尻をやられ、その牛と共に退死してしまった。福島県で畳屋をしていたというひょうきんな男は、常に妻子の写真を肌身に付けていて、駐屯地では必ず枕元に箱を備え、それを飾り付けていた良い親父だったのに、まったく可愛そうな事をしてしまった。かてて加えて砲弾が落下する中では、遺体の処理も出来ず、そのまま放置されてしまった。