カテゴリー別アーカイブ: 第九章 雲南作戦

雲南作戦(三)

 いよいよこれから敵の着弾距離になる道路を突破し、龍陵へ進撃するという戦闘部隊について、仮繃帯所(カリホウタイショ)(※1)を開所し、併せて診水も行うことになった。

 昭和十九年九月?日、まず攻撃は歩兵第四連隊の主力を待って、通称小松山の奪還作戦から始められた。そこは、ビルマ公路を見下ろす位置で、敵の陣地を構築されていた。本体は、衛生材料を自動車に積んで先行し、我々騎馬部隊は、ノロノロと進んだ。中にはビルマで徴発した赤牛もかなりいて、文字通り牛の歩みだ。雨は降りしきり、暗くもなってきた。それでなくとも心が減りこみそうな、およそ戦闘意欲などは皆無になっているときに、ドロドロンという遠雷のような砲声が次第に近くに聞こえるようになり、パンパンという小銃の音や、カタカタカタと枝を叩く様な機銃の音も、山の中腹辺りから聞こえてきた。誰も口を利くのも億劫な風だったが、ぽつんと一声、

「あれは味方の砲声だろう。」

と言った。おそらく言った本人もそうと信じたわけではなく、そうあってほしいという希望に過ぎなかったのだろうが、その一言で何となくホッとした様なざわめきが隊列を流れ去った。ところが数分も経たないうちにそれは完全に裏切られた。すぐ前の山の、向こう側から撃ってくる敵の山砲弾らしいのが、我々の進路の上に確実に落下し始めたのだ。この道路は山の斜面を縫って走る一本道だったのだ。山の向こうでドーンという鈍い発射音が聞こえると、間髪を入れずビューンという不気味な音を伴った弾丸が飛来し、路上で炸裂してピカッと光った。次の瞬間ガーンと耳をつんざく様な爆発音だ。これが十秒間隔くらいで規則正しく繰り返された。ほかに迂回路は無く、退くことは到底許されないので、一発落ちた直後に一人づつ、その危険区域を通過するのだ。前の一人が馬とともに走って山の向こう側へ消える途端にガーンと一発来る。

「それッ」

と、ばかりに馬の口を取って一散に走り出す。まるで呼吸も止まるような緊迫感だ。どうやら山の向こうへ廻ったと思う頃、すぐにガーンと来た。

「やれやれ助かった。」

という感じはまたなんともいえない快味である。こうして全員どうやら第一の難関は突破した。こうした山また山を縫って蛇行するビルマ公路を進んだが、雨はますます降りつのり、西も東も分からず、先行の本隊とも連絡がつかなくなり、山を切り通した道路脇にひとまず馬を繋いで夜明けを待つことになった。

※1:戦場で負傷者に応急手当を施す所で、戦線の間近な後方に設けるもの。

雲南作戦(二)

 ここラシヲの街は、ビルマの北端に近い所で気候は良く、周囲を山に囲まれた盆地で、郷里魚沼盆地とよく似た地形だった。村外れから「岩山」、「酒郷」方面の山を見る景色に良く似ていて、ひとしお懐かしかった。しかし、街には殆ど人影も無く、日本軍が所々に駐留しているだけだが、その廃墟に対して昼間から英軍機が銃撃を浴びせてきた。村外れにある日本軍飛行機上にはもはや一機の飛行機も見えない。ここで、後続の駐留部隊の到着を待って、いよいよ山また山の雲南省へ向かって行軍を開始した。行けども行けども山ばかり、人家も耕地も殆ど見られない。雨は降り出したら、天が破れた様な土砂降りで、体という体全部がぐしょぐしょになってしまった。息は一層消沈して、休養と慰安が待っているという普通の演習だったら張り合いもあるのだろうが、敵が砲門を置いて待ち構えているというのでは、誰だって足が重くなるわけだ。山中の小休止に何とかして火を燃やそうと苦心するが、朽木も葉もすっかり濡れきっているので煙も出ない。何でもよいから雨の落ちないところで休みたいと願っても、掘立小屋さえないのだ。

 こんな惨憺たる行軍を続けて、やがてビルマと支那の国境の街「椀鎮」に着いた。こことても、住民は殆どどこかへ逃げてしまってガランとしていた。ただ殺風景な日本軍の人馬がひしめき合っているだけだ。さらに進んで「芳市」という街へ来た。ここもまったくの無人外だが、どこからとも無く支那人の女が、内地と同じ笹の葉に包んだ餅を持ってきて、塩や薬品と物交していく。しかし、ここまで来ては、とても余分に塩など持っているものは無く、茶もろくに無いから恨めしく見送るだけだった。

 ここでは学校の様な建物に宿営したが、翌朝未明に「敵襲!」の非常呼集がかかったが、何もなすことが無く、右往左往している間に、彼我の機関銃の打ち合いが鈍く聞こえただけで敵は退散してしまった。かねて覚悟してきたのだが、やはり敵が目の前にいることを知らされたこの事件は、誰もが青ざめた思いだったに違いない。

 こんな山の中の廃墟にも内地人や朝鮮人の慰安婦がかなりいて、この敵襲騒ぎで壕へ逃げ込む姿を見て、また別な驚きを感じた。この女たちも最後の一人まで兵隊と一緒になって敵と交戦し、散っていったという話を後で聞き、憐れの情を催したが、その真偽の程は分からない。この先に尚、龍陵、羅孟、騰越など、日本軍の占領している街があったが、既に重慶軍に退路を立たれて孤立していた。羅孟までは到底行けようもなく、玉砕を見送るしかないという悲しい状況にあった。

雲南作戦(一)

 昭和十九年八月、いよいよ戦局は我が方に利在らず、南太平洋でも、印緬国境でもジリジリ圧迫されて後退を続けた。内地さえも連日の空襲を受けるようになったらしいという情報も伝えられた。そんな最中、今度はビルマの奥地、支那との国境方面に警備に当っている我が方の部隊にも危機が迫ってきたというので、インパール作戦の残留部隊は、そちらへ救援作戦を敢行することになった。

 これまでは、自動車に依存して移動していたが、今度は山岳戦になるというので、各部隊に馬が配属された。当部隊にも、内地からの老朽馬と現地徴発の小柄な支那馬が十数頭配置され、新たに内堀准尉を長とする馬部隊が編成された。そして、連日の土砂降りをおかして、馬の貨車積みを行い、遥かビルマの北端まで運んだ。途中行軍もかなりあったが、何しろ慣れない馬の旅では荷物が多過ぎて、馬も人間も疲労が甚だしい。そこで余分な荷物全部を纏めて汽車に積み、ラシヲへ先行するために、山口二等兵と俺がまた汽車に乗り込んだ。

 この汽車は、薪を炊いて走るので、機関車は馬鹿に大きいが、速力はあまり出ず、客車も木の椅子でスプリングは固く、まるで貨車に乗っているようだった。それでも、一週間以上もろくに眠らない行軍の後だったから、すっかり眠りこけてしまった。。終点ラシヲに到着したのは未明だったが、灯火管制が徹底していて駅は真っ暗だった。急いで装具を身につけたところ、いやに腰が軽いので、ふと見ると帯剣の中身が無い。列車で外して棚に載せておいた間に抜けてしまったか、それとも他所の兵隊に抜かれたか、いずれにしろ兵士の魂とも言うべき帯剣を無くした事は、穏やかには済まないことになったと一時はまったく途方にくれた。しかし、暗闇の中で探すにも探されず、また多くの装備を預かっているので、ぐずぐずしているわけにもいかず、すぐに定期便のトラックに便乗して、先着している部隊に行き、その旨を櫃間中尉に報告した。どんな処分を受けるかと思ってビクビクしていたが、

「戦争に行くというのに剣を無くすとは。」

と一言いわれただけで終わった。そして、古い連中から、

「こんな時に、帯剣くらいどこででも手に入るからビクビクすることは無いよ。」

と励まされ、我ながら妙な気持ちだったが、果たして、その古参兵が翌日自動車で連絡に出て帰ってきたとき、

「拾ってきたよ。」

と言ってあっさり帯剣をよこした。元通り帯剣が腰にぶら下がってほっとした。これがもし、平時の出来事だったら、目の眩むほど殴られた上、営倉くらいは喰らうところだった。