本体が出発した後は、ガランとした校舎の真中の建物に、いいものを全部集めて、一兵卒にいたるまで、スプリング付きの寝台に、個人用の蚊帳を張り、純毛、純白の毛布をかけて寝た。その上、誰からともなくパジャマを着て寝ることになり、まるでホテル住まいのような生活が始まった。仕事といっても、駐屯各部隊からの検便を主としたもので、我々輜重兵も、衛生兵並みのシャーレー洗いや、ヤニテン流しをやった。それも一日ほんの一、二時間の仕事で、あとは本を読んだり、キャッチボールをやったり呑気至極だった。
ジョクジャカルタでは、他部隊との同居だったから、そっちへの気兼ねもあったが、今度はまったく独立した建物にいるのだから、その心労もなかった。山内大尉、森川中尉の二人は、市内の民家に分宿して、これまたまったく軍人離れのした贅沢らしかった。建物には塀も無く、歩哨もたてず、夜たった一人の不寝番をおくだけだった。そんな具合だから、夜ともなると街の女たちがカラコロとサンダルを鳴らして集まってきて、それぞれ一人づつの兵隊をくわえて裏の空き兵舎に消えていくのだ。
外出は、日、水の週二回となったが、映画も芝居も日本人向けのものが未だ出来ていなかったので、街へ出てもたいして面白い遊び場も無く、公営の慰安所へ行ったり、レストランでウイスキーを飲むくらいだった。
この駐留間の収穫は、なんといっても顕微鏡の世界を知ったことだ。赤血球、ブドー状菌、連鎖状菌、双球菌をその実物を目で見たが、それにも増してその神秘的な実態に接した感じを深くしたのは、精子の姿を見たときだ。丸い半透明な頭を活発に振りながら精液の中を泳いでいる姿は実に脅威そのものだ。
毎日を呑気に暮らし、戦局がどうなっているのかたいした関心も持たず、またラジオもなし、軍司令部で発行する新聞が、週に一度くらい回覧されるが、あまり内地の事情も戦局も詳しくは知らせてくれなかった。ジョクジャカルタでは、在留華僑団がラジオ受信機を寄付してくれたので、これで米空母の東京初空襲を知った。その重大性もあまりピンとこなかった。しかし、この間に米英連合は着々と反撃の準備を進めていたのだ。
バンドンに来て初めて内地からの便りを手に入れることが出来た。なんといっても一番嬉しかったのは、妻からのその後の詳しい便りと、節子のまだ生まれて間もないあどけない写真が入っていたことだった。妻子ある連中の殆どがこの時、その写真や便りを手に入れて大はしゃぎだった。中には学齢に達した子供を持ったものもいて、そのたどたどしい文章を見せて自慢しているものもいた。
ジャワ島はじめ全蘭領東インドもまったく日本軍の手中に収まり、軍政も軌道に乗ってきたので、兵隊の中から現地除隊希望者を募った。こんな気候のいいところで一生妻子と暮らすことが出来たら、と本気で応募することになり、履歴書も出したし、マレー語の勉強も身を入れてやりだした。
知らぬが仏で、現地除隊などもう戦争は勝利に終わったくらいに思っているとき、敵米国は着々と反撃準備を進め、その先鋒が西太平洋の最前線ソロモン群島のガダルカナル島に逆上陸し、少数の我が守備隊は全滅し、出来上がったばかりの飛行場には、敵戦闘機が進駐していたのだ。やがて第二師団に、このガ島奪還作戦の出動命令が来た。先着の師団主力は、途中行く先を変更して比島ミンダナオ島に一時待機して、我々残留部隊のジャワ島出発を待ってどこかで合流する手筈となり、この平和な美しい街バンドンにもお別れすることになった。それは、まったく予期しないことで、戦局はこれからドンドン苛烈を極めていったのだ。