ある日、清水大尉が公用で出張することになり、四、五日隊を空ける事になったので、印鑑を下山軍曹を預けたことがある。そのとき下山軍曹は大いに男気を発揮するつもりか、手紙の検印を俺がしてやるから、何でも書きたいものを書いて出せということになった。喜んだのは妻子と別れていた老兵どもで、検閲に引っかかるのが怖くて真心を書き送ることが出来ない、この時ばかりと、思い思いの手紙を妻子のところへ書いた。しかし、検閲は隊を出てからでも、何回やられるかわからないので、うっかり反戦、反軍的なことはかけないと俺は自重して、当たり障りの無い事しか書かなかった。ところが、仲間には妻恋しさから里心を出しすぎて、反戦的愚痴を書いたものがあったので、ラングーンの憲兵隊の検閲に引っかかり、下山軍曹や清水大尉は何等の処分も無かったらしい事は、どうも腑に落ちない点であった。
三月ともなると、今まで一滴も降らなかった雨がぽつぽつ降り始めた。このころになると、どこの部落でも一斉に屋根の葺き替えをやり、雨季に備えて家や家具の整備をやるのだ。そして、六月から九月の終わりまでは、まるで点の一角が崩れたように、毎日毎日土砂降りで、田も畑も道路もすっかり水浸しになってしまう。川という川は狂ったように氾濫した。部落内でさえも、隣から隣へ船で渡る始末なのだ。この雨のために、後方輸送路を断たれた印緬国境の友軍は壊滅してしまった。こんな有様では、防疫活動も出来ないので、本体への復帰命令が来た。豪雨の中を移動したが、イワラジ川を渡る時はまったく寿命の縮まる思いだった。大海のような広さで、しかも物凄い渦が巻いており、小さな船は今にも巻き込まれそうだった。
バイセンの本隊へ帰ったら、手紙の検閲の一件で、部隊長の前に並ばされて大目玉を喰らった。そんなことがあってから間もなく、今度はアラカン越えの分遣隊に編入されて、豪雨の中を再び移動の旅に出た。
今度はプローム組よりさらに人数が少なく、清水万之助少尉を長とするわずか七、八人の一行になってしまった。そして、もう一度猛り狂うイワラジ川を渡って西部地区に移り、それから民家などに宿泊しながら、徒歩で山間部に入っていった。終日の土砂降りに加え、山ヒルが頭上の木の枝から音も無く無数に振ってきて、襟首や脚絆(キャハン)の間から体に入り込み吸い付く。全然感じないうちに、多量の血が吸われてしまう、実に薄気味の悪いものである。こんな旅を幾日か重ねているうちに、目的も達しない間に後方から伝令が来て、移動することになったから、急いで帰隊するようにとのことで、何も仕事をしないうちにまた元来た道を引き返して本隊に帰った。