カテゴリー別アーカイブ: 第六章 ソロモン群島進駐

ソロモン群島進駐(四)

 昭和十七年も押し迫ってから、一部の進級が発表されて俺と日野君とが上等兵に進んだ。一緒に入隊した一つ星の仲間では、大抜擢の上等兵だからちょっと嬉しかった。戦地で迎える第一回目のお正月は、酒も甘いものもたっぷりあって、ガ島で日夜敵機の銃爆撃を受けて食物も弾丸もなく、土の穴にもぐってじっと歯を食いしばっているという同胞のことを思えば、まったくもったいないような生活だった。食料は、みんな内地からはるばる送ってくるが、缶詰と乾燥物ばかりだから、生野菜というものを上陸以来一つも口にしていない。これには閉口して、浜辺に生える名もない草や沼地に生える甘藷(※1)の苗に似た葉を食べたりした。

 このころになると、もう湾内には損傷を受けた艦船だけとなってしまった。これさえも敵機は一隻も生かしておかぬぞといった勢いで、毎日空襲して次々と座礁させたり炎上させたりしてしまうのだ。沈没した軍艦の乗組員も、我々の宿舎近くに宿営していたが、陸に上がると余計に敵機が怖いといって、防空壕に飛び込んでいった。

 十八年二月に入り、陸海空三軍をあげての補給作戦のその効なく、遂に我が軍はガダルカナルを放棄することに決した。二月七日より、新鋭駆逐艦十隻を持って、決死的撤退作戦を敢行し、生き残りの将兵を助けてブーゲンビル島へ収容したが、続々と上陸してくる三軍収容者の姿は、まったく生き地獄差ながらのものだった。髪も髭も伸び放題で、服はボロボロ、靴など履いている者は何人もなく、銃も銃剣も赤錆で、その用をなすとは思われなかった。そして、安全地帯へ引き上げたという心の緩みで、砂浜に伸びたまま動けなくなってしまったものも数知れないほどいた。

 こうして命拾いをして引き上げた兵隊たちも、殆どマラリアと栄養失調で倒れ、ジャングルの中に丸太を組み立てて出来た、野戦病院へ収容された。そこへも時々使いにやらされたが、まったくこの世の様とは思われなかった。全然日がささない薄暗い小屋は、丸太を並べたゴツゴツした床にに粗筵を一枚敷き、その上に毛布を一枚を重ね、骨と皮ばかりの病兵が頭を並べて横たわり、虚ろな目を天井に向けてひっそりしている。

 衛生兵はいることはいても手が回らず、三度の食事はおかゆと梅干で、これをバケツで各病人の飯盒の蓋に配って回るだけだ。そして殆どの兵が下痢を起こしているのに便器もなく、便所といってもずいぶん離れたジャングルの中に穴を掘って丸太を渡しただけである。病兵は床から這い出してところかまわず排便するものだから、その汚さは言語を絶していた。更に慄然としたことは、病室の近くに大きな四角い穴を掘っておいて、その中に死者の遺体を投げ棄てておく。クマンバチほどもある金蠅が黒くなってたかっている。とてもその中を覗いて見る勇気はなかった。

 この病死体を解剖して、軍医学校へ資料として送るという任務が防疫給水部に課された。隊長の大田中佐、二階堂中尉の二人が執刀することになり、ほかに下士官一、兵二が使役として付けられた。俺もその仕事に二、三回当たって、近くの野戦病院へ行ったが、病院から少し離れたジャングルの中の小屋に、前日死んだ兵隊の遺体が、棒切れで作った急造担架に乗せられたまま並べられてある。多いときは五、六体もあった。それを片っ端から解剖していくのだが、若い男がよくもここまで痩せられたものと驚くほど骸骨同様の死体や、むくみでまるで俵のように丸くなった死体など、実に目を背けたくなるものばかりだった。初めのうちはその臭気が鼻について、班内に帰っても食事が出来なかった。

 こうして一ヶ月くらいの間に、強いものは再起したが、弱いものは死んでしまい、第二師団は全滅同様となった。戦況はいよいよ我が方に不利となり、ガ島を完全に占拠した敵は、だんだんこっちに押し寄せてくる。空襲は夜となく昼となく執拗に繰り返された。そんな状況下で、突如我が師団は比島方面へ転進することになったが、古い順に内地へ返されるのだ、などと穿ったデマを飛ばすものもいた。ともかく、刻々と戦況が不利に傾いていくこの南西の島から、一刻も早く安全な場所へ転進したいのは誰も同じだった。

※1:サツマイモ

ソロモン群島進駐(三)

 隣にいた衛生隊は全部引き払って乗船した。この時の船団は、佐渡丸以下快速を誇る新鋭輸送船十一隻に、多数の艦艇が護衛してガ島に上陸し、敵と対峙している友軍を助けて一気に島を奪還しようという雄大な作戦であったらしい。しかし、いよいよ明朝この船団がガ島海域に突入しようという日の昼頃、敵戦闘機隊の大挙来襲を受けて、殆ど全滅し、佐渡丸一隻だけが満身創痍の痛々しい姿でこの島へ戻ってきた。そして、それに収容されていた負傷兵をハバナ丸という貨物船に移して仮の病院とし、我が隊からも毎日何名かの衛生兵が手伝いに行った。

 この頃は既に、敵はガ島飛行場にどんどん戦闘機隊を増強して、完全に制空権を握り、日本軍を一隻も寄せ付けない厳重な警戒ぶりだったのだ。さらに二日ほどした白昼、今度はこの舶地に敵機編隊が来襲し、停泊中の船に爆弾の雨を降らせた。佐渡丸は船首をやられ、しばらく走ったがついに横転、ハバナ丸は火災を起こし、すぐ目の前で焼け落ちてしまった。この船などは、敵機が去った後間もなく船橋の辺りからポヤポヤとうす煙が立ち始めたが、すぐに消し止めるだろうと思っていると、乗組員達は消火もせず、我先に下船してしまったので、みすみす六千トンもある船を焼いてしまった。それにしても、あの鉄だけで出来ていると思われた船が、きれいに燃え盛る光景は実に不思議なものだった。

 この頃から次第に敵の空襲が激しくなり、、殆ど毎夜飛行場に来襲した。飛行場の周辺は我が軍の対空砲火の陣地と照空燈(※1)が無数にあって、来襲した敵機を照空燈で捕らえると、これに向かって曳光弾の一斉射撃を加える。実に勇壮で見事なものだったが、それにもひるまず真っ直ぐに突っ込んで来て、超低空で爆撃していく敵機搭乗員も相当な猛者だと思った。中には照空燈の光芒を浴びるとすぐに踵を返して逃げ去る者もあった。しかし、爆撃の都度、我が方の被害は加わる一方で、しまいには滑走路とは名ばかりで、飛行機も飛ばなくなってしまった。すると今度は、その周辺に駐留する部隊の爆撃を始め、不気味な照明弾を無数にばら撒いて、しきりにジャングルの上を飛び回る。こちらはみんな大木の下に小屋を作っているのだから、なかなか見つからないと見えて、弾は一発も落とされなかった。

 しかし、寝ていてもいつやってくるかわからぬ敵機に怯えてよく眠れず、みんなノイローゼ気味になってしまった。そんなわけで、ただただ、雨の降ることを祈った。平和な時なら海岸へ出て唄でも唄いたいと思われるいい月が恨めしかった。こんな状態だから、ガ島で苦戦する友軍への補給も次第に困難になり、駆逐艦による補給もし、更には潜水艦まで使われたが、そんなものは雀の涙ほどでしかなかった。それさえも敵は執拗に爆撃を繰り返して、殆ど友軍の手に入らないということだった。それでも軍首脳部はこの地を棄てることは出来ず、無人島を開いては飛行場を作る計画を進め、我が隊からも使役兵を何名か出すことになった。幸いにもその頃俺は赤痢が治ったばかりだったのでその選に漏れて行かずに済んだ。使役にやられた連中の話だと、英印軍の捕虜を使ってロクな土木機械も無く、コツコツとスコップとモッコで地ならしをしていたということだった。そんな苦労をした飛行場も使い物にならないまま撤収してしまったのだ。

※1:サーチライトのこと

ソロモン群島進駐(二)

 師団主力はガダルカナルに進撃するはずであるが、船の都合でもあるのか、一旦この辺りの海岸に仮の宿営をしているようだった。すぐ隣接して衛生兵が宿営していたが、その中に同じ日に応召になった郷土の久保準治君がいて、よく海岸で一緒になったときなど、郷里の話をして楽しんだ。またブリスベン丸では、郷土の高橋君という人も同じ日に応召になっていた。

 我が隊の本部は先に来て、飛行場の近くにいることが分かり、渡辺兵長と二人で連絡にやらされた。定期的に各隊及び船舶間を通う大発に便乗していったが、本部でも低い天幕生活で兵隊も元気が無かった。この時、本部では赤痢患者が出ていた。それで、昼食を食べた際、その菌を貰ってしまったので、一週間ほど経ってから急に発病し、一人で隔離小屋に入れられ、半月以上も死ぬ思いをすることになった。この連絡の用件は何であったか忘れた。帰りに便船が無くなってしまい、仕方が無いので海岸伝いに歩いて帰隊することにしたが、途中かなり大きな河口に出た。橋は無し、もちろん船も無いのでやむなく身包みを脱いで頭の上に乗せ、やっと渡ったが、後であの河口には鰐が出没し、洗濯に出た兵隊が喰われたと聞いて、肌寒い思いをした。

 この島には花らしい花は殆ど見られず、ものすごいジャングルだったので小鳥もあまりいない。時々ギャーギャーというオウムに似た鳥を見かけるだけだった。また、ジャングルには大蛇がいると聞かされたが見たことは無かった。しかし、トカゲのたくさんいるのには驚いた。大は長さ二メートルくらいのものから、内地にいるようなものくらいの小さいのまで、実に様々なのがうようよしていた。

 上陸後三日経った頃、海岸沿いに走る大発の中から、

「防疫給水部。」

 と大声で呼ぶので連絡を出すと、司令部のある佐渡丸(輸送船)まで連絡将校を出せ、とのことだった。すわ、いよいよガ島進撃の命令だろうというので、隊長の山内大尉が出張したところ、軍直轄の防疫給水部の誤りということで、我が隊はここに残留と分かり一同何となくホッとした。

ソロモン群島進駐(一)

 昭和十七年十月初旬、我々はジャワ島の首都バタビアの近くの港、タンジョンブリョクで、輸送船ブリスベン丸(五千トン)に乗船した。タンジョンブリョク港には、上陸作戦のとき、敵艦ヒューストンの魚雷を受けて沈没した我が方の輸送船数隻が、赤い腹を見せて醜く横たわっていた。今度はわずか四、五隻の輸送船に、護衛の駆潜艇二隻といういたってこじんまりした船団だったが、速力はずっと早く、十四ノットくらいとのことだった。

 一日くらい走って、ジャワ島東端のスラバヤ港に入港した。ここも我が軍の別働隊が上陸したところで、埠頭はだいぶ荒れていて、砂糖の袋詰めが倉庫の焼け跡に野積みされて、痛ましい姿をさらしていた。ここには沈船は無く、港の水は濁っていた。ここでは若干の食料を積み込んだだけですぐに出港し、西南太平洋へ向かった。まだどこへ行くのか一向に聞かされなかった。航海中にブリスベンが故障して船団を離れたので、恐ろしく心細い思いをしたが、何事も無く間もなく追いつくことが出来た。

 一週間ほどの航海で、船はラバウル港に入った。ここは、我が西南太平洋前線最大の基地で、多数の艦船が港内に停泊し、陸上には飛行場が数箇所あって、友軍機が飛び回っていた。

「ここからはいくらも遠くないガダルカナルでは、彼我の上陸部隊が死闘を繰り返しており、これを奪取出来るかどうかが太平洋戦線の関ヶ原だ。我々は死ぬことはいと容易いが、決して死を急いではならない。最後の一瞬まで一人でも多くの敵を殺すことを考えなければならぬ。」

という意味の師団長閣下の訓辞を伝えられ、急に戦争が身近に迫った感じで、心が引き締まる思いだった。そんな時、暑い日盛りだったが、急に甲板上の高射砲が吼え出したので、何事と甲板へ出てみると、遥か上空を四発の敵機がただ一機、白い尾を引いて飛んでいた。それを狙って撃っているらしかったが、届くはずも無く、たちまち飛び去ってしまった。おそらく偵察のための高空通過だろう。これで敵地近くやってきたことが、ヒシヒシと感じられ、心を締め付けた。

 間もなくラバウル港を出て、厳重な警戒を続けながら、ソロモン海域を進み、一昼夜の航海でブーゲンビル島のヴエン地区に入った。ここは南の海岸線で、前にはショウトランド島があり、そこに海軍の飛行場が数箇所あって、連合艦隊の一部も停泊していた。その堂々たる威容の空母と戦艦、飛行場を飛び立つ零式戦闘機の軽快な姿が我々に安堵を与えたが、間もなくこの艦隊も、何処へともなく姿を消してしまい。以後再び見ることが出来なかった。

 ここはまったくの無風地帯で、大小無数の島々には、うっそうと熱帯樹が茂り、波打ち際まで木の枝が伸びていて、少し離れるとまるで海中に木が生えているように見えた。一夜を船で明かしていよいよ二度目の上陸だ。ここにはまだ敵はいないが、人跡未踏のジャングル地帯、一足踏み込めば何がいるかわからないという薄気味悪いところだ。

 上陸した後は、各人の携帯天幕をつなぎ合わせて仮小屋を作り、その中に一塊になって寝たのはいいが、夜半にものすごい豪雨がやってきて、何もかもびしょ濡れになってしまった。その上真っ暗な中でなにやら首筋をモソモソ這うような気配、手をやったとたんに飛び上がるほどの痛みを感じた。どうやらサソリにやられたらしいが、その痛みは一日取れなかった。

 翌日には早速天幕を低く、地面にくっつけて張り、やっと潜り込むようにしたら、どうやら雨だけは凌げた。一番困ったことは、沼に水はいくらでもあるが、海に近すぎるため塩気があることだ。砂を掘ってもすぐに水は出るが、ヌルリとした味でしょっぱい。更にあっちこっちから板切れや天幕の廃品などを集めて小屋を立て、その中に将校以下雑魚寝するという生活が始まった。