退屈極まる航海がまた五日ほど続いた後、船団は仏印のカムラン湾に入った。ここは日露戦争の時、バルチック艦隊が寄港して休養をとった所だという。その入り口は山と山に囲まれた実に狭い海峡だったが、中は物凄く広い。その中にぎっしりとありとあらゆる種類の艦船がひしめいていた。その偉容はなんとも形容し難いもので、無敵大海軍の名に背かないものだった。この大艦隊がまさか二ヶ年余の間に全滅してしまうとは誰が想像したことだろう。
カムラン湾停泊中に、一回半舷上陸を許されたが、陸に上がってみたというだけで町があるわけではなく、きれいな川も沼も無く、百姓部落の井戸水をもらって行水しただけだった。それでも、十日間も船上で暮らした後で踏みしめる大地のガッシリとした安定感はなんともいえぬ頼もしさだった。この部落民は支那系の人々で、黒づくめの木綿服に素足という極めて素朴なものだ。家屋などもまるで日本の山小屋か、畑の番小屋程度の粗末なもの、家財道具などもまるで無い様子だった。
カムラン湾に何日くらい居たろうか。明けても暮れても船の上で、木もろくに生えていない仏印の山々と湾内に停泊している艦船を眺めて暮らすのは、実に退屈だった。そのうち、二月十五日にシンガポールの英豪連合軍が降伏したというので内地では大祝賀会が行われるという。全員武装して甲板に集まり、皇居遥拝の式を行い、少々のお酒と甘味品の下給があった。そしてその翌日、船は港を出た。三日振りで動き出した船上はそよかぜが吹き渡り、兵隊たちも生気を取り戻したようだった。湾外に出たところでおびただしい輸送船団と合流して大船団となり、それに護衛として第八艦隊といわれる巡洋艦数隻を含む大艦隊がついてきた。
最後の寄港地を離れたのでもう機密の漏れる恐れは無いというわけで、師団の任務が発表された。それによると、師団は昭和十七年三月一日、午前三時を期して蘭領のジャワ島に敵前上陸し、英豪連合軍を殲滅するというのだ。そして現地についての気候、風俗等についての概略の説明が合った後、現地語であるマレー語の教育も行われ始めた。その時になって始めて各船に数人のマレー語の通訳官が乗り込んでいたことが分かった。
大船団はジャワ島へジャワ島へとひた押しに進んでいった。途中、どこの基地から飛んでくるのか、日の丸も鮮やかな銀翼を張った海軍機の大編隊が、ごうごうと船団の上を通過して、南の水平線に消えていった。実に頼もしい限りであった。
出港してから何日目か。水平線上にかすかに陸影を認めて兵隊たちは大喜びだった。船員の話ではアンナバス諸島の一部だという。海はますます静かになってきたが、暑さは一層苛烈になり、一時間も船室に続けて居られない。一日一度はきっとスコールがやってくる。その時ばかりはみんなで素っ裸になって甲板に飛び出し、体をびしょ濡れに濡らして喜び合った。
これがどこか平和な新天地を求めての旅だったらどんなに楽しいことだろう。しかし現実は、敵がてぐすね引いて待ち受けている地域だ。
「海岸線まで鉄道が来ている場所へ上陸するのだから、おそらく列車砲などもあるだろう。この船団の三分の一は犠牲になる覚悟の上陸である。」
と誰言うともなく言いふらされた。そのうち、敵艦隊が現れたという情報で、船団は回れ右をして北へ引き返すこと一昼夜、その間護衛の艦隊だけが全速前進をした。後で分かったのだが、このとき米豪連合艦隊との間でジャワ沖海戦が行われ、敵艦隊に大打撃を与えたのだった。そこでもう大丈夫とあって、再び船団は南下を始めた。この後退のため、三月一日の上陸が一日伸びた。