一旦バンドン周辺に集結した各兵団はここでそれぞれの警備地区へ分散されることになった。我々櫃間中尉の小隊は更に分けられて、大原見習士官を長とした十五人ばかりの下士官兵が、昔王城があったという「ジョクジャカルタ」に向かった。そこはジャワ島中部の要衝で、若松の歩兵第二十九連隊の遠藤大隊を主力とする部隊が進攻していた。
バンドンから先は殆ど戦闘は行われない無血進駐だけに、部落でも街でも、住民たちは不安げに我々の進軍を覗いていた。ジョクジャカルタまで、丸一日はかかったと思うが、街に入るとその蒸し暑さは一層激しく、直射日光は肌に焼きつくようだ。すぐに王城内に入り、割り当てられた宿舎に入ったが、工兵隊の分遣隊と一つ棟を分けて使うこととなった。そこにはまだ蘭印軍の土民兵がいて、我々の世話をしてくれたが、翌日にはどこかへ行ってしまった。
兵舎はかなり高いコンクリートの塀に囲まれており、その塀の上は歩けるようになっていて、そこへ登ると街の様子が一目で見渡された。また「グノンメシピ」という活火山もみられて、実にいい眺めだった。別に勤務があるわけではなく、演習も無いので、毎日が退屈なくらい呑気だった。それで、一部の兵隊と隣の工兵隊の連中は、昼間からトランプ博打をやっていた。そんな仲間に入ったら大変なので、暇な時はスケッチブックを持って塀に登り、街の風景を写生した。
ここで初めて日曜日の外出を許され、久しぶりに娑婆の風に当たることが出来た。しかし、街へ出ても映画は無く、飲食店とはいっても不味い割りに高いから、せいぜい果物を食べるくらいで、もっぱら兵隊の遊び場は、軍公認の慰安所ということになる。
そこには現地の乙女たちが十数人もいて、アンペラで囲った部屋に入れて相手をするのだが、内地を出たときから南国の女には恐るべき梅毒があるから、むやみに接してはならないと言われているので、何となく薄気味が悪かった。もちろん言葉は片言も通じないし、何となく嫌な体臭があって、決して良い相手ではなかったが、何しろ妻子と別れて暮らすこと半年以上になる中年男の多い部隊だけに、この慰安所はかなり盛っていた。
一回が軍票の一円で、サックが一つ配給されていた。そして窓も無い風も通らない部屋へ入っていくと、がらんとしたアンペラ囲いの中に、竹製のギシギシという寝台の上に、軍用の藁布団を敷いた粗末なものがあり、その上で用を足すわけだが、汗ばかり出て何が何だか分からないうちに終わってしまった。誠に浅ましい限りである。
外出出来ない日でも、裏門の前には、果物、アイスクリームなどを持った娘や少年たちが群がって、兵隊相手に商売しているが、夜ともなると、これはまた春を売る娘たちがチラホラ現れて、兵隊たちに手で合図をするのだ。それに答えてこっそり顔を出した兵隊の一人が、一枚の軍票を娘に手渡すと、それを持って街灯の下へ行き、ひもらしい男とそれを明かりにかざして、ためつすがめつ眺め、本物の軍票と確信すると、娘は勇敢にも鉄の門扉に登って、兵営内に飛び込んでくるのだ。女が一旦体を張れば怖いものは無いらしい。
こんな呑気な日が続き、御馳走は飽きるほど食べられた。煙草は敵さんの押収品のジャワ煙草「マスコット」というかなり上等なものがどしどし配給されたし、まったくの天国だったが、戦争に駆り出された男たちにこんな贅沢を長く許しておくはずは無かった。