ルソン島転進(一)

 昭和十八年四月初旬、師団生き残りの将兵は、たった一隻のボロ貨物船に詰め込まれて、たった一隻の駆潜艇に守られて、半年間住み慣れたブーゲンビル島を離れた。この頃は既に敵の制空権下にあり、海上は敵船の目が光っていたが、幸いにして一度も脅かされずに一昼夜の航海でラバウル港にたどり着いた。

この船には撃墜した敵機の搭乗員二人が両手を縛られて乗せられていたが、どこへ連れて行かれたのかその後のことははっきりしなかった。三千名近い人員を五千トン級のボロ船一隻に詰め込んだのだから、全員が背嚢に寄りかかってしゃがみこむだけで、とても横になるなんて出来ない有様だった。もしあれを敵機または敵船に発見されて攻撃されていたら、一人残らず海底の藻屑となったであろう。まったく思い出しても皮膚にあわ立つ思いだ。ラバウル港に入った船は、港の入り口に近いコーポという地区について、一旦そこに上陸し、幕舎を作って待機することになった。ここは、湾内を見下ろす丘の上で、椰子の林が続き、実に景色のよいところだった。濾水車四台はソロモンへは行かず、ずーとここで待機していたので、これで全体隊員ガ揃ったわけだ。やはり何もすることがないので、毎日幕舎でゴロゴロしていた。時々は、ひるまでも敵機が来襲することがあったが、我が方には、もう殆ど戦闘機はないということだった。それに、ニューギニア方面の戦況もいよいよ悪化していた。この方面からも、生き残り将兵を満載した船がよく痛々しい姿で港に入ってきた。

コーポは、ラバウルの市街までは二里以上も離れたところで、ろくな商店もなかったが、軍の慰安所は一ヶ所あった。そこには駐屯部隊が日割りで行くようになっているということだったが、我が部隊は通過部隊なので行くことはなかった。作業のときに通ってみたら、なんと飯盒持参の兵隊が、延々と列を成して順番を待っていた。その脇を、グデングデンに酔っ払った大佐が副官らしい若い将校に支えられてヨタヨタと通って慰安所に入っていった。なんとも浅ましい姿であると吐き出したい気持ちだった。

 わずか二週間くらいここにいたが、注射を受けて寝ていた日が多かった。五月になってまもなく、再びボロ貨物船(アデン丸、六千トン)に鮨詰めにされて長い航海に就いた。乗船人員はジャワへ渡るときの三、四倍多く、とても甲板に小屋を作って涼むなどの芸当は出来はせず、蒸し暑船底でハアハア言いながら寝ていた。十日間ぐらい走って船団(といっても三隻と護衛駆逐潜艇二隻だった。)はパオラ湾に入ったこの島はさんご礁に囲まれ、港の入り口は実に浅く一隻ずつやっと通れるだけの水路が開いてあった。水は実にきれいで、船の上から水底のさんご礁や魚がよく見えた港といってもたいした施設はなく、停泊の船も少なかった。ここで一日くらいは上陸許可されるのだろうと期待したが、とうとうその望みはかなえられずに再び航海の途に就いた。このころ、この周辺の敵潜の暗躍は実にものすごいものでパラオ港入り口には、既に何隻かの輸送船が沈められているということだったが、無事通過することが出来た。

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