昭和十八年十月、四たび輸送船に乗ることになり、マニラ湾に集結した。今度もリマ丸というボロ貨物船で、六千トン級だった。もうこうなると内地帰還の夢を追うより。この次はどんな土地へ行くのか、それを楽しみにするほかなかった。航海はやはり退屈なものだったが、今度は一番短く、一週間ほどでシンガポール港に入港した。ここは、東洋一といわれる美しい港だけあって、山に囲まれた深い入江が幾つもあり、どこにも大きな輸送船が横付けになっていた。支那人苦力(クーリー)(※1)が薄黄色の支那服に、菅笠(スゲガサ)をかぶって荷役をしている姿が目に映った。どこの港でも見慣れた潮焼けした逞しい男のほかに、女苦力の多いのにも驚いた。
街の風景は、英国三百年の東洋植民地の基地として発達した場所とは思われず、まったく台湾で見た支那人の街と少しも変わらなかった。町並みはそうでも、通る人間はまるで世界人類の見本市の様で、白、黄、黒と、色とりどりの皮膚の色は実に異様で到底日本では見られないものだ。しかし、その名も昭南と改められ、あまつさえ神社まで伊勢神宮そっくりに出来ていた。
三日ほど市内に仮宿してから、自動車を連ねてジョホール水道を渡り、マライの首都クアラルンプールに入って、そこの学校を接収した建物に落ち着いた。この街は戦禍の跡も無く、落ち着いたいい所で、日本映画を上映する常設館も二つあり、日本人の経営する食堂なども何件かあって、内地の街にいると同じ享楽が出来た。ここに宿営中にマライ進駐部隊の連合演習があり、我々もこれに参加して「イポー」という小さな街へ行ったことがあった。この辺りは有名な錫(スズ)の産地で、至る所で巨大なコンベアを使って露天掘りをやっていた。それとゴム園経営がこの地方唯一の産業で、食料はほとんど国外から仰いでいたが、戦争でバッタリ入らなくなったのだから、一般国民の食糧難はかなり酷いものだった。我々の炊事場には、その残飯をもらうため、毎日数十人のマライ人、支那人、インド人が群がり集まった。飯盒を洗った場所に散らばった飯粒を、一つ一つ拾っていく姿は、実に深刻だった。こうした原住民の中には、我々が宿営している家屋の持主も混じっていると聞いては、戦争の罪悪をつくづく感じないわけにはいかなかった。
※1:東南アジア諸地域の肉体労働者