このころ、ビルマを横断して泰、仏印にある我が基地を爆撃するB二十九が、よくこの街の上空を通過したが、その都度空襲警報で非難させられるので閉口したが、幸いに爆撃を受けたことはなかった。この辺りの泰国人は、日本人とよく似ていたが、男女ともに髪を角刈りにして殆ど素足で、黒っぽい着物で実に殺風景だった。しかし、女達の中には洒落たワンピースを着て、日本軍に春を売りに来る者もいた。
石沢、斎藤の三人で、昭南まで、現地人労務者を受領しに出張したことがあった。バンコック発昭南行き国際列車に乗って出かけたが、途中、アヒルのゆで卵ばかり食べたら、腹をこわしてまいってしまった。泰でもマライでも、大量のアヒルを野原に放し飼い同様にし、長い竹竿で追い回しながら湿地帯を歩かせているのを見受けた。アヒルの卵は実に安かった。受領した労務者は、インド人、支那人、インドネシア人など取り混ぜて百名くらいで、貨車に詰め込んで輸送した。捕虜ではないので逃走の心配はなかった。俺たちの任務は、昼の食事などの世話をすることだった。彼らは人種も違い、言語も違うが、英領に住んでいるだけに、大体英語なら通じるらしく、車内では賑やかにしゃべりまくっていた。一人病気を起こした者があって心配したが、持参のキニーネを飲ませたら治ってしまった。マライから泰国を旅行してみて、あまりにその違いの大きいのに驚いた。一歩泰国へ足を踏み入れると、駅の建物も、街々の風景も、人の表情も、陰気で薄暗いものだ。
ここには英印軍の捕虜が多数働かされていたが、インド兵のグータラなのに比べて、英国人のテキパキとしていたのにはさすがと思われた。貨車の積み込みなど、それが自分等の同胞を殺す仕事に協力することになるにも拘らず、実に真面目に気に入るまで、何回もやり直している姿は、頭の下がる思いだった。人と人の繋がりでは、お互いに信頼しあっているのに、どうして国と国とでは争いが絶えないのだろう。