マライからビルマへ(五)

 昭和十九年二月に入ってまもなく、原隊復帰の命令が出たので、本体の分遣隊に戻り、やがてビルマへ転進することになった。開通間もない泰緬鉄道の貨車に乗り込んだが、開通したといっても木橋を渡る危険な鉄道なので、一キロ走ると一休みといった具合で、ビルマの東橋にあるモールメンまで三日かかった。

 一歩ビルマへ入るとここはまた、まるで違った土地へ来た感じだ。街は殆ど爆撃で破壊され、樹木も少なく、何から何まで干上がった感じだ。それもその筈、ビルマ南部では、秋から冬にかけては一滴の雨も降らないのだ。川は一滴の水も無く、他は白く乾ききって岩のように堅くなり、木の葉も埃をかぶって白くなっていた。部隊の宿営も、蚊帳さえあればよいというので、野天に蚊帳を張って寝たこともあった。

 やがて部隊は、イラワジ川の下流のデルタ地帯の街、バセインに駐留することになった。この街は爆撃も受けていなかったが、何故かすっかり寂れていて、商店にはろくな品物も無い、実に殺風景なところだった。住民は殆どがビルマ人とインド人だが、いずれも栄養不足で皮膚病にかかっており、不衛生極まるものだった。そこで我が隊は手分けして住民の防疫活動を助けることになり、土地の吏員に手伝わせて片っ端からコレラやチフスの予防接種をした。おかげで輜重兵である俺たちは、注射器を握っていっぱしの医者気取りで住民の腕にぷすぷす針を刺して、わずかな快感を味わった。

 そのうち、そろそろ雨季が近づこうという三月末頃、またまた分遣隊を編成してバセインから更に西へ、イワラジ川に沿ってのぼり、ブロームという街に入った。ここは完膚なきまでに破壊され、街の中心はまったく瓦礫の山で、辺りの寺院とパゴダがわずかに残っただけだった。我々はその寺の一軒を宿舎としてこの辺一帯の防疫にあたることになった。隊長清水軍医大尉、下山軍曹、鈴木伍長以下、わずか十五名ほどの人数で、またまたおよそ軍隊らしくない生活が始まった。朝夕の点呼も不寝番も無い、その土地の人が毎日遊びに来るといった至って和やかなものだった。それでも時々米軍機の夜間爆撃があって、戦時にいることを思わせた。ただ食料としての野菜が極度に欠乏していることは辛かった。なにしろ、毎日内地の夕顔に似た瓜ばかりだからやりきれない。しかし、ここからいくらも離れていないインド国境で、英印軍と対決している前線部隊の労苦を思えば、もったいないような話である。

 この近所に日本人を夫にして、二人の子供がいるビルマ婦人が住んでいた。日本語はペラペラだし、愛嬌もある人で、よく遊びに来て何かと食物などをくれたりして慰めてくれた。二人の子供は花子に太郎という日本名を持っていて、上の女の子は十二、三才、下の男の子は十才くらいだった。戦前にこの地へ渡って所帯を持ったが、戦争のために現地徴用になって入隊しているということだった。

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