日曜日には、トラックでプノンペンの町まで遊びに連れていってもらうのだが、そこはカンボチヤ国王のいる首都だけに、なかなか立派な町で、軍の慰安所もあるし、近くに軍の飛行場もあって、ビルマ戦線ではもう見られなくなった日の丸の鮮やかな双発機が、威勢よく飛び交っていた。
この辺の住民は、外国人と同じような顔立ちだが、男女ともに坊主刈りで、衣類は黒っぽい粗末なもの、しかも素足が常習ときているので、程度は低いといわなければなるまい。現地の雑役夫を雇っておいたが、彼らは簡単に炊事道具だけを天秤棒で担いできて、忽ち小屋を建て、そこで寝泊りしている。実に安上がりである。朝は細君が、枡の壷のようなものを持って出ていき、近くの沼から鰻の頭を曳きづって来て、これを鉈で料理して朝飯である。常食は米だが箸を使わず手つかみだ。しかし、支那系の人々は、箸を使い、漢字を解するので、いくらか物の分かりそうな人物をつかまえて筆談すれば、大抵のことは通じる。
放牧場になっている野原の中に貯水池があって、東屋風の建物があり、そこが旅行者の休み場所となっているらしく、誰でも自由にはいって休むことが出来るようになっていた。そして、その小屋の壁面には、漢字で、「この地方は水が少なく、旅行者が炎天下に非常な苦しみをなめていたが、某と言う偉人が私財を投じて貯水池を掘り、この家を建てたので、以後、おおいに旅行者は助かっている」という意味のことが書いてあった。それを見て、少年時代、郷里の行去塚の井戸の由来を記した碑文がこれとほぼ同じ文体で、同じことが書いてあったことを思い出して懐かしかった。
この原野に来てしばらくしてから、古い兵隊たちが独断で、禁断の雄馬と雌とを共に放牧したので、雄同士でものすごい決闘が始まり、収拾のつかないことになったことがある。それはまったく想像以上のもので、蹴り合い、噛み合いから果ては後ろ足で立ち上がって殴り合いまでやり、弱い奴は眼球が飛び出して、片目になったり、足の自由がきかなかったり、散々な目に合わされた上、すごすごと馬群から去っていくのだ。
こうして残った威勢のいいのが何頭かで、全部の雌を分けて支配すると、もう闘争は起こらない。一度血で血を洗う決闘の後、雄同士の実力が判ってしまうと、それに応じた勢力分野が決まり、一頭に雌数頭のグループが幾つか出来て、後は平穏な牧場風景になった。
こうして平穏無事な牧場生活は、至極のんびり経過していたが、一つ悪いことには、4・5人の兵隊達が殆ど毎晩徹夜でオイチョカブと呼ばれるバクチをやっていることだ。わずかしか貰わない給料をやったり、取ったりしても仕方がないと思われるが、やっている本人は、無中なのだから、他からの警告を聞こうともしない。これは何もこの部隊だけのことではなく、おそらく全軍の至る所で行なわれている悪事の一つだろう。俺は幸いにしてまだ一回も仲間にはいったことがなかったので、食わず嫌いで通した。こんな閑静な生活を送っている間にも、戦局はいよいよ我が方に不利に向かっており、更にここからメコン河をのぼって、安南の国の丘陵地帯に師団は立てこもることになった。