そのうち、内地帰還の話も出始めめたが、船の殆どを沈められたので、残った船舶を総動員しても、海外に生き残った日本人全員を送還するには、短くても七年はかかるだろうとか、内地に帰すと言って船に乗せ、東支那海へ捨てるのだろうなどと様々なデマが乱れ飛んだが、どれも実感が伴わず、自分たちの身に差し迫った危機でないだけに、みんなのんびりしていられた。
武装解除は段々進み、まず兵器弾薬を一定の場所に集積することを命ぜられた。その使役に行ったが、どこにこれだけの弾薬や被服衣類があったのだろうと思うほどのおびただしいものだった。だから世界の情勢のよく分からない現地人など、なぜ日本はこれだけの物がありながらアメリカに降伏したのか、今からでも俺たちと手を組んでもう一度戦争をやろう、と言う青年が多数現れたのも無理のない話だった。そして最後に、兵隊たちのゴボー剣まで全部集めて、敵さんの将校に渡し、英国国旗に忠誠を誓わされた。これで本当に丸腰になり、軍隊ではなくなってしまったので、気分的にはとても楽になった。
そして、内地帰還までは、自給体制をとらなくてはならないと、農耕班と漁労班とに分かれて、本格的な長期篭城計画を立てた。ところがどういう風の吹きまわしか、船の漕ぎ方も知らない俺に、漁労班の役割がついた。おそらく、使いにくい奴ばかりをより抜いて、海へ追い払ったのではないかと思われる顔ぶれで魚師班が作られた。海に面した海岸の、名もない部落のお寺のような家を借りて、横尾軍曹を長として七、八人が本格的に魚取りを始めた。