昭和十六年十二月八日、その日は宮城野原練兵場で各個教練をやっていたが、部隊本部から伝令が来て全員即刻帰隊するようにというので急いで隊形を整えて帰隊し、全員が舎内に集合した。
しかし何事が起こったのかさっぱり分からなかった。そこへ山内剃崔が現れて米英に宣戦布告をし、同時にハワイの真珠湾では米太平洋艦隊を全滅させ、マレー半島、ルソン島、グワム島、ウエーキ島等を一斉に敵前上陸を敢行し、全軍破竹の前進を続けているので我々の行くところが無くなってしまった、と冗談交じりに話をした。
太平洋が風雲急を告げているということは薄々分かっていたが、こうまで早く宣戦布告になるとは誰も思っていなかった。それだけに兵隊の中には一瞬ざわめきが起こり、次に自分たちの運命について真剣に考え出したようだった。それまでは単純に支那大陸か仏印辺りの警備の交代要員として二年も勤めれば除隊になると考えていたのだが、相手が米英の二大国となればいわば世界を相手に戦うと同じで、これは容易ならざるものと覚悟しなければならなかった。しかしそれからの日々も今までと大した変わりは無く、上辺だけの朗らかさを装ったり、各々自慢話をしたり、毎日を無為に送っていた。
その中で一つ困ったことがあった。それは、飯盒、帽子、靴下などの官給品が頻々として盗られることだった。誰にも公平に支給されるものだが不心得者がいて、自分の物が汚れたり壊れたりした時、他人の物を失敬する。すると盗られた者がまた他人の物を頂戴するという具合で、これが果てしなく繰り返されていくわけだ。俺も隊内の入浴場で顔を洗っている隙に帽子が無くなってしまった。しかし若い兵隊の様に他人のものを失敬する勇気も無く、無帽で班内に帰ってその話をしたところ現役の若い連中が、
「じゃー俺たちが取り返してやる。」
と言って飛び出して行ったが間もなく真新しい帽子を持ってはぁはぁいいながら戻ってきた。まるで他人のものをうまくせしめることに無上のスリルと歓喜を覚えている様子だった。
日曜日には大抵外出を許されたが、宣戦布告後はどことなく緊張した空気が漲っていた。老兵の多くは酒を飲むなどして鬱憤を晴らしていたが、家に残った身重の妻のことを思うと一時の快楽を求める気にもなれないので大抵映画を見て帰った。家の近い連中は、営門まで女房族が迎えに来たり、市内で待ち合わせたりして大層楽しそうだった。そんなことはとても出来ない相談だけに諦めていたから大して羨ましいとも思わなかった。妻からは面会が許されればどうしても一度会いに行くと手紙で言ってきたが、別れの辛さが嫌だったので面会は出来ないと言って諦めさせた。
十日間程、将校集会所の当番をやらされた。各隊から一人づつの兵が出て、上等兵を長として六名程で朝の点呼から夜の点呼までいるわけだ。食事の上げ下げから拭き掃除までする。将校といっても自分たちよりも余程若い。まるで女中同様に手にヒビを切らせて食器を洗ったり、雑巾をかけたりする。入隊した以上、過去の一切は捨てて最低位からやり直すつもりではいても精神的苦痛を感じないわけにはいかなかった。しかし夜の勤務も昼間の演習も無いし食事は良い所を腹一杯食べられるから考えようでは悪くない役割だった。
現役の初年兵の様に、学科や実技で競争する張り合いも無い。全くその日その日を無為に過ごしていることに、何とも言えない物足りなさと自責の念に悩まされた。隊内には新聞も無く、ラジオも聞けないので殆ど外部のことは分からなかったが、南方戦線では着々と戦果を拡大しつつあるということが兵の口から次々と言いふらされていた。しかし自分たちの部隊がいったい何時頃何処へやらされるのか皆目見当がつかないままどんどんと日は経っていった。
今でこそ数々の書籍や資料で当時の時系列を知ることが出来ますが
当時の軍人も民間人も起こる事象が全て寝耳に水の状態だったんでしょうね。