入隊(三)

十二月が終わりに近くなると寒さに向かうというのに蚊取り線香やメンソレなど、真夏のものがどしどし支給される。おそらく仏印辺りだろうくらいのことは誰にも分かってきた。

そして突如として師団は愛知県の演習廠舎(ショウシャ)に移ることになった。次の動員を行うため、仙台の兵舎を空けなければならなくなったためだろう。それから資材の梱包、車両の貨車積みと三日ほどは目まぐるしくこき使われた。

そして長強矢から乗車して一昼夜乗り通して名古屋の北の松林に囲まれたバラックの兵舎に移された。車両輸送中は全車窓の鎧戸を降ろして、まるで囚人者のように何も見せず、途中停車してもホームへ出ることも許されなかった。軍の移動をひた隠しに隠している様子である。

名古屋の廠舎に移ってからの待遇は更に悪く、毛の抜けた紬(ツムギ)のような毛布にカタカタの布団一枚、寒さはいよいよ厳しくとても眠れない。有沢政一君と二人分の毛布をかぶって寝た。その重さのため、足腰が痺れることさえあった。

演習といってもこの頃になったら、濾水車を一単位とした給水隊が編成された。俺は櫃間中尉を隊長とする第二給水隊だったが、三斗入水嚢を背負って歩いたり、トラックの上乗りして一石入水槽を運んだり、まるで遊び半分のことばかりだった。ここで同時入隊した特務兵出身の二等兵は一斉に一等兵に進級させられ、星が二つになってやっと兵隊らしくなった。

十二月も押し詰まった二十九日に浦佐から手紙が来て、妻が女児を無事出産したことを知った。しかし帰郷はもちろん隊での面会も一切禁止されていたので、僅かに便箋一枚に意を託してやれたのが精一杯だった。

やがて正月になったが、カマボコ型の餅一本に酒が一合配給されただけで外出があるわけでもなく、生まれて始めてこんな惨めな正月を迎えた。妻からの詳しい手紙を待っていたが、兄の代筆のものばかりで本人の筆跡を見られないまま十日過ぎになってしまった。

そのころから、いよいよ外地へ向かうらしいという噂が広まり、それを裏付けるように次々に新しい夏服がわたり、編上靴も新しいのが支給された。古い被服は各自が洗って返納させられたが、その洗濯の辛さは並大抵ではなかった。

一月十二日、またまた車両や機材を貨車に積み込み、手足も凍結しそうな夜、名古屋を走り抜けて広島へ送られた。遠藤一等兵、及川上等兵と俺の三人は広島市内の勤め人風の中流家庭に泊まった。その一泊は、それまでの漬物石のような毛布に比べて余りに上等な軽さに、却ってよく眠れなかった。夕食には大きな旅館に集まり、町内の娘たちがお酌に出て実に満堂(マンドウ)(※1)のもてなしで、まったく感激の限りだった。

次々に集結して来てはどこへともなく運ばれていく多くの部隊に対してああまでの歓待をすることは、兵隊たちの生涯の思い出になったことだろう。しかし悲しいかな、昭和二十年八月の原爆一発で広島市は灰塵に帰してしまい、あの時の娘さんたちも主人方も奥さん達も大部分は死んでしまったのだ。

翌朝も旅館に集まって朝食をご馳走になり、粉雪の降りしきる中をトラックに乗せられ、町内の人々の見送りを受けて暗いうちに宇品港へ向かった。

宇品の港には大小様々の軍用船が数十隻停泊していて、師団の輸送指揮官の区分に従い少しづつ分散して他の連隊の兵隊と混合で乗船することになった。やがて夜もすっかり明け放たれて、いよいよハシケに乗って本船に向かう番が来た。われわれ櫃間隊は隆南丸という古い古い五千トン級のボロ貨物船に乗せられたが、船上から見る故国の山々は白雲に覆われ、宇品の街もひっそりと静まりかえっていた。

※1:堂の中に満ちること。満場。

入隊(三)」への3件のフィードバック

  1. kjirou

    >昭和二十年八月の原爆一発で広島市は灰塵に帰してしまい、あの時の娘さんたちも主人方も奥さん達も大部分は死んでしまったのだ。
    せつねぇ・・・。

    返信

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