これが故国の見納めになるかもしれないと思えば、何かこみ上げてくるものがあるはずだが、乗船したらすぐに船室の割り当てを受け、船上生活に必要な食器などを受領したり、見廻り品の整頓やらで、一人で感傷にふけっている余裕も無かった。
すぐにまた一番船尾の一区画へ移された。そこはスクリューの真上に当たっていて、酷く振動の激しい場所だった。その一番奥へ装具を押し込み、毛布を四つ折に敷いて、全員芋を並べたように寝る。何しろ着ているものは全部夏物で、毛布も一人一枚当りしかない。夜になったらその寒いこと。もちろん火の気は無く、あるだけの毛布を集め、それでも足りなくて敷いてある薄べりまでかけて鼠の子供のように並んで潜り込んだが、とうとう寝ることは出来なかった。
そうこうしている間に船は出港し、翌日は下関海峡を通過する。軍の移動を隠すため、兵は絶対に甲板へ出てはならぬと固く言い渡された。しかし禁じられると余計見たくなるもので、甲板にしかない便所へ行くふりをして出てみたが、下関と門司の両岸がすぐそこに迫り、歩いている人間の姿もはっきりと見られた。これが故国の見納めになるかもしれないと、三々五々そこらにいた誰もが感傷的になっているらしかった。
やがて九州の山々が遥か後方に霞み、それもとうとう水平線の後方に没し去って、目に入るものはただ青黒い大海原と白い雲、それに前方警戒の駆逐艦が二隻、それに続く僚船が七隻だけとなった。こんな風景の中で唯一つの慰めは、船首近くの白波の間からスースーと飛び立っていく飛魚の姿だった。
夜は完全な燈火管制で、太い煙突から吐き出される黒煙が不気味に船上を覆い、前後の僚船の姿も見えず、時折護衛の駆逐艦が船腹すれすれに通り過ぎるのが見られるだけだ。
故国を離れて二日ほど経ったら、船内は急に暖かくなり、甲板から眺める海の景色は何の変化も見せないが、ぐんぐん南下していることがはっきり分かった。やがて、玄界灘のうねりが大きく船を揺らし始め、ぼつぼつ船酔いで苦しむ兵隊も出始めた。
船内の生活は酷く単調なもので、たまに船橋に立って、対潜、対空警戒勤務に就く他は殆ど仕事は無く、一日一回は全員甲板へ出て運動するが、後は船室内でゴロゴロしているだけだった。船には郵便物も届かず、ラジオも無く、自分たちはいったいどこへ運ばれていくのかさっぱり分からず、もちろん読む本とて無かった。
食事は陸上の兵舎にいたときよりも更に悪く、生ものは殆ど無くて、凍り豆腐や若芽〆の味噌汁、魚の煮付けのお菜に、塩水で洗って炊いたしょっぱくて黒い麦飯だ。その代わり二日に一回くらいは金平糖などの下給品が配られた。これが兵隊たちにとっては唯一の慰めだった。
開戦直後、しかも国内からの出航の船でも粗末な食事だったんですね。
石油の備蓄が残り3カ月程での開戦と聞いたことがあります。
本当にぎりぎりのところだったんですね。