ジャワ島上陸(二)

 ジャワ島は赤道の南で、日本内地とは夏冬反対だが、時間はほぼ同じで、五時ごろにはほのぼのと明るくなる。そのころ、我々も小発に乗っていよいよ敵地に乗り込む段になった。船腹を縄梯子に伝わって降りる訓練は航海中にやっていたので、大体のコツは分かっているつもりだったが、さて重い装備を付けて実際にやってみると、ぶらんぶらんと揺れている梯子を降りるのには一汗かかされた。それでも落ちた者も無く、予定通りに小発に移乗して、一直線に陸地に向かって走り出した。兵隊たちは、膝の上まで塩水に浸かりながらものんきに話しをしながらゆっくりと上陸した。

 そこは一面の椰子林で、既に上陸した部隊の兵が大勢あっちこっちで休んでいた。我々も適当な場所に一塊になって休んでいるうち、すっかり夜は開け放たれ、まばゆいような熱帯の太陽がギラギラと照りつけ始めた。そうなってみると、あっちにもこっちにも名も知れぬ赤い花が咲き乱れているのが見られ、虫の声も賑やかで、全くの楽園に来た感じだった。もしこれが敵との交戦しながらの上陸だったら、あるいはもう海の底に沈められてしまっていたかもしれないと思うと、ゾッとした。

 そのころになったら、船団はぐっと海岸線近くに侵入してきて、一斉に積荷の陸揚げを開始した。船団の上には、我が戦闘機隊が乱舞して敵機を警戒していた。車両や兵器、弾薬などを満載した大発が続々と砂浜に乗り付けては陸揚げをしていたが、そのうちの一隻に、二、三十名もの外人船員らしいずぶ濡れの男たちが乗っていた。よく見ると、みんな鬚無邪の白人で、紺色の作業衣に、同じ色の救命胴衣をつけているだけで携帯品は何も無く、殆どが素足で、中にはかなり酷い怪我をして仲間の肩を借りているものもあった。

 彼らは砂浜に上がると、一塊になって座らされ、その周りを着剣した友軍兵が取り巻いていた。誰もがこれを見て、てっきり我が海軍に撃沈された敵貨物船の船員だろうと思ったが、誰からともなくその男達は昨夜のバンタム湾上陸の、我が方の主力艦隊と交戦し、沈められた米巡洋艦ヒューストンの乗組員だということが伝えられた。これが世界に誇る米海軍の軍人かと思われるような、むさ苦しい男ばかりなのにはまったく驚いてしまった。

 彼らの中には、毛むくじゃらな腕から海水に濡れたがかなり上等らしい腕時計を外し、煙草と交換しようと取り巻きの日本兵に、手招きで哀願してくるものもいたが、誰も薄気味悪がって応じようとはしなかった。しかし、その表情には、概して楽天的なものがあって、悲惨な捕虜という感じは無かった。あの頃でも、最後は俺たちの勝ちになるのだといった面構えが伺われた。

 彼等とて、何も好き好んで戦争に来たわけではないだろう。やはり国家の権力によって召集されているに違いないと思うと、反感どころか、むしろ同情さえ感じられた。その後、ジャワ島を進撃中に、丸裸に近い体に、日本軍団の地下足袋などを履かされ、リヤカーに荷物を乗せて歩いている姿を見たとき、一層哀れみの情を深くした。

ジャワ島上陸(三)

 車両や機材の陸揚げが終わり、部隊を整えて行動を起こしたのは夕方だった。敵は敗走してしまって姿を見せなかったが、どこで不意打ちを食らうか分からないので、一応銃に弾丸を込めて、全員車上の人となった。

 戦闘部隊に続いて、この方面の「ホイテンブルグ」ジャワ名「ボゴール」に向かった。しばらく走ったとき、前方に赤、黄、青、色とりどりの派手な服装をした土地の人が大勢いるのが見えたので、これはてっきり土地の娘たちが総出で行軍を歓迎しているものとばかり思ったが、近づいてみると、何とそれは全部屈強な男ばかりで、派手に見えたのは腰に巻いている「サロン」だった。この地方の人々は、男女、老若、子供にいたるまで、腰に派手な布地を巻きつけている。面白いことには、女は日本人の腰巻のように一枚の布を横で合わせているが、男は筒型に縫い合わせてあって、普通は腰に巻いているが、少し活動するときはこれを肩から斜めにかけたり、時には頭に鉢巻みたいに巻きつけたりしている。

 沿道に出た男達は、みな右手親指を突き出して口々に何か怒鳴って歓迎の意を表していた。しかし、異国の軍隊を迎えるので、警戒心は解いていないらしく、女と思われるものは一人も姿を見せなかった。部落に入ると、一層大勢の人が集まっていたが、やはり女は家の中にでも隠れているのか、さっぱり見られなかった。

 初めて女を見たのは、その翌日あたりで、部隊が路傍で小休止をしているとき、どこからか子供を抱いて泣きながら、二十二、三才ぐらいの女がやってきて、しきりに何か訴えている。腹が減っているのだろうと誰かが飯盒の蓋で飯をやったが、頭を振って食べなかった。そしてまたどこへともなく行ってしまった。

 上陸第一日目の夜は、道路に面した部落の中で、自動車に乗って仮眠することになった。敵の姿は無くとも、異国の夜は何となく不気味だった。その上、遥か前線とおぼしい方向から、遠雷のような砲声が轟いてきた。隊長櫃間中尉以下、僅か二十名そこそこの部隊では一層心細い。しかし、戦争の悲惨さを未だ一度も経験していない連中ばかりだったので、いたって朗らかなものだった。

 土地の人々は姿を消して、誰一人姿を見せなかった。不寝番の割り当てで、何か不満でもあったのか、分隊長心得の円谷兵長が文句を言って隊長に叱られるという一幕があった。

ジャワ島上陸(四)

 翌日も一路東へ向かって自動車進撃を続けたが、敵はどこへ行ってしまったのか、何の情報も無く、また戦闘状態も起こらなかった。「チャンジョウール」という街へ入ってみると、あっちこっちに砲弾による破壊の跡があり、火災を起こして焼け落ちた民家も何件かあって、まだくすぶっていた。

 その街の中心部と思われる辺りの道路上に、オランダ軍兵士の死体が十数人も転がっていて、中にはまだ生きているらしいのもあった。しかし、土地の人は一切それらに触れようともせず、我々日本兵に対する歓迎の仕草で一生懸命だった。中には白人家屋の略奪品と思われる上等の家具を二、三人がかりで運んでいるガッチリ型もいた。だが我が兵隊の中にも何か物欲しそうに焼け跡をうろついて隊長に怒鳴られたものもいて、土地の人を笑えぬひとコマもあった。

 この辺りから、沿道いたるところに白人の乗り捨てた乗用自動車が溝に片輪落ちしたものやら、電柱にぶつかったままの物やらが見られた。また自動小銃や機関銃も無数に捨てられてあったが、誰も目をくれなかった。

 進むに従って、ジャワ島の中心部に入ったらしく、田や畑が広々と開け始めた。ここでは年中雨が降り、米は後から後からとれるということだった。そのため、稲刈りと田植えが隣接した地区で行われているのも見られた。稲は日本のものと違って藁が長く、固くて、穂は種がまばらだが日本種の三倍の大きさだ。これを藁ごと刈るのではなく、老若男女数十人が一団となって田へ入り、小さな刃物で穂首からもぎ取って、これを日本の落穂拾いのようにひと掴みづつ束ねて、両手に持てるだけ持って延々長蛇の列を成して部落へ帰るのだ。実にのんびりした、まさに原始時代の生活である。家に集めた稲穂は、庭一杯に広げてよく乾燥させ、牛に踏ませて粒を落としてから袋に詰めて、政府の精米工場に納めるということだ。

 道路は舗装されていて、両側に大きなねむの木が立ち並び、南国らしい風景を繰り広げている。部落には大小色々の椰子の木や、バナナの葉が繁っていた。逃げた蘭印軍が友軍の追撃を阻むために、道路上の並木の幹に穴を開けて、爆薬を仕掛けてあるということだったが、余りに急な進撃にそのいとまも無く、そのままになっていたが、所々倒されていたところもあった。

 上陸第二日目の夜も沿道の部落で仮眠を取ったが、ここでは大勢の現地民がやってきて、手真似や表情で盛んに我々を歓迎してくれたが、彼らに取り巻かれていると、実に妙な体臭が漂い、気分が悪くなった。

 その後、現地人の密告で近くの部落に大型トラックが隠されているというので、四、五人で銃を持って行ってみると、現地米の袋を満載したまま車庫に入れてあったが、大事なキャブレターを取り外してあるため動かず、仕方なく現地人に手伝わせて押し出して宿営地まで持ってきたが、結局どうにもならず、つんであった米は全部現地人にくれてやった。

ジャワ島上陸(五)

 こうして極めて平穏な進撃を続け、三日後にはジャワ島西部の要衝「ボイテンゾルグ」に入った。ここは本隊の上陸したバニタハ湾からの本通りも通じていて、既に我が軍の諸部隊が入っていて、右往左往していた。建物などはオランダ風の洋館もある。立派な街で、戦争の跡もなく、原住民も平常通りに生活している風であった。

 我々にとって一番珍しくて嬉しいものは、数々の果物だ。バナナ、マンステン、パパイア、パイナップル等内地で知られているものはもちろん、その他名も知らないものがたくさん街道で売られている。通貨は蘭印政府のものが通用しているが、我々には船内で既に軍票が渡されていた。それで結構果物くらいは買えたので、行く先々で十分食べられた。

 ボイテンゾルグを出て、バンドンに向かったが、この辺りから戦禍が酷く、橋も破壊されたものがあって、迂回させられたこともしばしばあった。どこへ行っても人間の多いのには全く閉口した。珍し気に寄ってくるのはいいが、服装は汚く、皮膚病患者が実に多い。また子供は大抵マラリアにかかっているため、腹部が甚だしく張ったのが多い。それでも友軍の行動にはよく協力してくれた。例えば、迂回道路がぬかるみで困っていると、鉈を持ってきて山の木を切り出して敷いたり、昼食の時は椰子の実や水をサービスしてくれたりした。

 ある部落で小休止していると、突如飛行機が低空で通った。ふっと見上げると、日の丸でなく、二重丸の英軍機だった。始めて見る敵機にすっかり狼狽して、頼りにもならない家の軒下に隠れたりしたが、幸いそのまま通り過ぎていった。またあるときは、大通りから少し外れたところで、給水訓練(実戦中に訓練とは変に聞こえるが、実際にそんな暢気な進撃ぶりだった。)を兼ねて、水浴と洗濯をやっていると、綺麗な川の流れとばかり思っていたのに、ちょっとした淀みを見ると、黄色い人糞の塊がプカプカ浮いている。よく注意してみると、そんなものは無数に次々と流れているのには全く肝を潰してしまった。後で分かったことだが、この土地では、みんな川や沼の中に尻を浸して糞をするのだ。そのくせ、その同じ川で洗濯をし、体を洗い、口をそそいでいるのだ。全く不衛生極まる話だが、昔からの習慣であれば、当たり前のことで、当人たちは一向に平気らしい。

 またある時は、土地の男が手招きで、オランダ兵がやってくると知らせたので、その真偽を確かめてもみず、大慌てに車両をまとめて逃げ出したこともあった。

ジャワ島上陸(六)

 こんな悠長な日を送っている後方部隊とは別に、前線では、敵を追ってバンドンへ、バンドンへと破竹の進撃を続けていた。名前は知らないが、かなり大きな河に架けられた橋が爆破されて通行できず、工兵隊の架橋の仕上がるのを待って、大部隊が川岸に集結した。この時、前方の敵砲兵陣地から、この架橋妨害の砲弾を打ち込んできて、若干の戦死者を出した。この時我々も橋に近い椰子林に待機していたが、ヒュル、ヒュルという不気味な砲弾のうなりに次いで、耳を圧するような爆発音を初めて聞き、みんな顔色を無くして、ただうろうろと立ち騒ぐだけだった。

 そのうちに工兵隊に負傷者が出て、担架で後送されて行くのを見ると、一層恐怖感を煽られた。しかし、この砲撃も間もなく、たった一機の友軍戦闘機の低空飛行による威嚇で、全く沈黙してしまった。ほどなく架橋が始められたが、この日はやむなく、我々は一時後退して宿営し、翌日この架橋を渡って、いよいよバンドン市内へ入ることになった。その前に、後方からの伝令で、敵が全軍降伏したことが知らされ、全線に渡って朗らかな笑いが起こった。

 それから先の行軍は、実に頼もしいものだった。中にはドラム缶の上乗りをしながら、トランプで博打を始める者さえあった。しかし、自動車を運転する者たちは大変な苦労だった。何しろ幹線道路の橋があっちこっちで爆破されているので、その都度山の中の泥道を迂回させられるのだから、一日の行程もいくらも進まなかった。

 また、運の悪い出来事もあった。ある捜索連帯の若い将校が道路の偵察に出て橋の下へ降りて行き、そこに運悪く隠れていた敵兵に狙撃されて戦死したことがあった。後には敵味方の死者は無数に見たが、その頃は敵のはともかく、味方の死体を見るのは初めてだったので、何ともいえぬ悲しみに襲われたものだ。

 敵が堅塁を誇っていたバンドン要塞も、その威力を十分に発揮することも出来ず、あっさり開城となってしまったので、我々は何の抵抗も受けず、堂々とバンドン市内に入ることが出来た。途中、自動車を手に入れたいというので、オランダ人らしい立派な家に行き、手を挙げて出てきた女たちに銃を突きつけて車庫の扉を開けさせたが、キャブレターは取り外してあったので、残念ながら動かすことが出来なかった。その次に、また土地の人の話で、自動車があるというので、本通路から大分外れた小部落内にある砂糖工場に行き、やっとボロトラックを一台手に入れたが、これを運転させられた村山一等兵の骨折りは大変なものだったらしい。

ジャワ島上陸(七)

 一旦バンドン周辺に集結した各兵団はここでそれぞれの警備地区へ分散されることになった。我々櫃間中尉の小隊は更に分けられて、大原見習士官を長とした十五人ばかりの下士官兵が、昔王城があったという「ジョクジャカルタ」に向かった。そこはジャワ島中部の要衝で、若松の歩兵第二十九連隊の遠藤大隊を主力とする部隊が進攻していた。

 バンドンから先は殆ど戦闘は行われない無血進駐だけに、部落でも街でも、住民たちは不安げに我々の進軍を覗いていた。ジョクジャカルタまで、丸一日はかかったと思うが、街に入るとその蒸し暑さは一層激しく、直射日光は肌に焼きつくようだ。すぐに王城内に入り、割り当てられた宿舎に入ったが、工兵隊の分遣隊と一つ棟を分けて使うこととなった。そこにはまだ蘭印軍の土民兵がいて、我々の世話をしてくれたが、翌日にはどこかへ行ってしまった。

 兵舎はかなり高いコンクリートの塀に囲まれており、その塀の上は歩けるようになっていて、そこへ登ると街の様子が一目で見渡された。また「グノンメシピ」という活火山もみられて、実にいい眺めだった。別に勤務があるわけではなく、演習も無いので、毎日が退屈なくらい呑気だった。それで、一部の兵隊と隣の工兵隊の連中は、昼間からトランプ博打をやっていた。そんな仲間に入ったら大変なので、暇な時はスケッチブックを持って塀に登り、街の風景を写生した。

 ここで初めて日曜日の外出を許され、久しぶりに娑婆の風に当たることが出来た。しかし、街へ出ても映画は無く、飲食店とはいっても不味い割りに高いから、せいぜい果物を食べるくらいで、もっぱら兵隊の遊び場は、軍公認の慰安所ということになる。

 そこには現地の乙女たちが十数人もいて、アンペラで囲った部屋に入れて相手をするのだが、内地を出たときから南国の女には恐るべき梅毒があるから、むやみに接してはならないと言われているので、何となく薄気味が悪かった。もちろん言葉は片言も通じないし、何となく嫌な体臭があって、決して良い相手ではなかったが、何しろ妻子と別れて暮らすこと半年以上になる中年男の多い部隊だけに、この慰安所はかなり盛っていた。

 一回が軍票の一円で、サックが一つ配給されていた。そして窓も無い風も通らない部屋へ入っていくと、がらんとしたアンペラ囲いの中に、竹製のギシギシという寝台の上に、軍用の藁布団を敷いた粗末なものがあり、その上で用を足すわけだが、汗ばかり出て何が何だか分からないうちに終わってしまった。誠に浅ましい限りである。

 外出出来ない日でも、裏門の前には、果物、アイスクリームなどを持った娘や少年たちが群がって、兵隊相手に商売しているが、夜ともなると、これはまた春を売る娘たちがチラホラ現れて、兵隊たちに手で合図をするのだ。それに答えてこっそり顔を出した兵隊の一人が、一枚の軍票を娘に手渡すと、それを持って街灯の下へ行き、ひもらしい男とそれを明かりにかざして、ためつすがめつ眺め、本物の軍票と確信すると、娘は勇敢にも鉄の門扉に登って、兵営内に飛び込んでくるのだ。女が一旦体を張れば怖いものは無いらしい。

 こんな呑気な日が続き、御馳走は飽きるほど食べられた。煙草は敵さんの押収品のジャワ煙草「マスコット」というかなり上等なものがどしどし配給されたし、まったくの天国だったが、戦争に駆り出された男たちにこんな贅沢を長く許しておくはずは無かった。

ジャワ島上陸(八)

 一ヶ月も経たない内に、バンドンの本隊からすぐに復帰するように命令が来て、大急ぎで装備をまとめ、ジョクジャカルタを後にした。そして進駐の時とは違う道路を通り、途中すごい峠などもあって、丸一日がかりでバンドンに到着したときは、トラック上の兵隊は、汗と埃にまみれ、まるで煤掃きの男のように目ばかり光っていた。

 師団主力は南太平洋方面へ出動する準備をすっかり整えていたが、我々は、山内大尉、森川中尉を頭として一個中隊を形成し、目抜き通りにあるキリスト教の高等学校を宿舎として、このバンドン市内に残留することとなった。そんなわけで、櫃間中尉の小隊は、ジョクジャ組と本隊とに分けられることになり、残留の我々は大いに羨望の的になった。その夜は、本隊と送別の宴を張ったが、それまでの本隊の生活と、我々ジョクジャ組みのそれとはかなり違ったもので、我々のほうは、全ての点で恵まれていたようだった。

 それからのバンドン駐留は更に贅沢な生活で、おそらく内地にいる人々などには想像も出来ないものだったと思う。そのころはもう内地では、食料も衣料もかなり貧窮していたらしいが、バンドンには、酒も甘味も衣類も実にふんだんで、しかも安かった。しかも殆どの日用品、嗜好品が下給されるので、下士官や将校は、かなり上等の時計やカメラなどを手に入れたようだった。俺もその真似をして、スイス製の提げ時計を買ったが、これは駄目だった。すぐに部品が壊れて動かなくなってしまい、飾り物になってしまった。それでもよく持ち続けて、最後に仏印在留中に土民に売って酒を飲んでしまった。

ジャワ島上陸(九)

 本体が出発した後は、ガランとした校舎の真中の建物に、いいものを全部集めて、一兵卒にいたるまで、スプリング付きの寝台に、個人用の蚊帳を張り、純毛、純白の毛布をかけて寝た。その上、誰からともなくパジャマを着て寝ることになり、まるでホテル住まいのような生活が始まった。仕事といっても、駐屯各部隊からの検便を主としたもので、我々輜重兵も、衛生兵並みのシャーレー洗いや、ヤニテン流しをやった。それも一日ほんの一、二時間の仕事で、あとは本を読んだり、キャッチボールをやったり呑気至極だった。

 ジョクジャカルタでは、他部隊との同居だったから、そっちへの気兼ねもあったが、今度はまったく独立した建物にいるのだから、その心労もなかった。山内大尉、森川中尉の二人は、市内の民家に分宿して、これまたまったく軍人離れのした贅沢らしかった。建物には塀も無く、歩哨もたてず、夜たった一人の不寝番をおくだけだった。そんな具合だから、夜ともなると街の女たちがカラコロとサンダルを鳴らして集まってきて、それぞれ一人づつの兵隊をくわえて裏の空き兵舎に消えていくのだ。

 外出は、日、水の週二回となったが、映画も芝居も日本人向けのものが未だ出来ていなかったので、街へ出てもたいして面白い遊び場も無く、公営の慰安所へ行ったり、レストランでウイスキーを飲むくらいだった。

 この駐留間の収穫は、なんといっても顕微鏡の世界を知ったことだ。赤血球、ブドー状菌、連鎖状菌、双球菌をその実物を目で見たが、それにも増してその神秘的な実態に接した感じを深くしたのは、精子の姿を見たときだ。丸い半透明な頭を活発に振りながら精液の中を泳いでいる姿は実に脅威そのものだ。

 毎日を呑気に暮らし、戦局がどうなっているのかたいした関心も持たず、またラジオもなし、軍司令部で発行する新聞が、週に一度くらい回覧されるが、あまり内地の事情も戦局も詳しくは知らせてくれなかった。ジョクジャカルタでは、在留華僑団がラジオ受信機を寄付してくれたので、これで米空母の東京初空襲を知った。その重大性もあまりピンとこなかった。しかし、この間に米英連合は着々と反撃の準備を進めていたのだ。

 バンドンに来て初めて内地からの便りを手に入れることが出来た。なんといっても一番嬉しかったのは、妻からのその後の詳しい便りと、節子のまだ生まれて間もないあどけない写真が入っていたことだった。妻子ある連中の殆どがこの時、その写真や便りを手に入れて大はしゃぎだった。中には学齢に達した子供を持ったものもいて、そのたどたどしい文章を見せて自慢しているものもいた。

 ジャワ島はじめ全蘭領東インドもまったく日本軍の手中に収まり、軍政も軌道に乗ってきたので、兵隊の中から現地除隊希望者を募った。こんな気候のいいところで一生妻子と暮らすことが出来たら、と本気で応募することになり、履歴書も出したし、マレー語の勉強も身を入れてやりだした。

 知らぬが仏で、現地除隊などもう戦争は勝利に終わったくらいに思っているとき、敵米国は着々と反撃準備を進め、その先鋒が西太平洋の最前線ソロモン群島のガダルカナル島に逆上陸し、少数の我が守備隊は全滅し、出来上がったばかりの飛行場には、敵戦闘機が進駐していたのだ。やがて第二師団に、このガ島奪還作戦の出動命令が来た。先着の師団主力は、途中行く先を変更して比島ミンダナオ島に一時待機して、我々残留部隊のジャワ島出発を待ってどこかで合流する手筈となり、この平和な美しい街バンドンにもお別れすることになった。それは、まったく予期しないことで、戦局はこれからドンドン苛烈を極めていったのだ。

ソロモン群島進駐(一)

 昭和十七年十月初旬、我々はジャワ島の首都バタビアの近くの港、タンジョンブリョクで、輸送船ブリスベン丸(五千トン)に乗船した。タンジョンブリョク港には、上陸作戦のとき、敵艦ヒューストンの魚雷を受けて沈没した我が方の輸送船数隻が、赤い腹を見せて醜く横たわっていた。今度はわずか四、五隻の輸送船に、護衛の駆潜艇二隻といういたってこじんまりした船団だったが、速力はずっと早く、十四ノットくらいとのことだった。

 一日くらい走って、ジャワ島東端のスラバヤ港に入港した。ここも我が軍の別働隊が上陸したところで、埠頭はだいぶ荒れていて、砂糖の袋詰めが倉庫の焼け跡に野積みされて、痛ましい姿をさらしていた。ここには沈船は無く、港の水は濁っていた。ここでは若干の食料を積み込んだだけですぐに出港し、西南太平洋へ向かった。まだどこへ行くのか一向に聞かされなかった。航海中にブリスベンが故障して船団を離れたので、恐ろしく心細い思いをしたが、何事も無く間もなく追いつくことが出来た。

 一週間ほどの航海で、船はラバウル港に入った。ここは、我が西南太平洋前線最大の基地で、多数の艦船が港内に停泊し、陸上には飛行場が数箇所あって、友軍機が飛び回っていた。

「ここからはいくらも遠くないガダルカナルでは、彼我の上陸部隊が死闘を繰り返しており、これを奪取出来るかどうかが太平洋戦線の関ヶ原だ。我々は死ぬことはいと容易いが、決して死を急いではならない。最後の一瞬まで一人でも多くの敵を殺すことを考えなければならぬ。」

という意味の師団長閣下の訓辞を伝えられ、急に戦争が身近に迫った感じで、心が引き締まる思いだった。そんな時、暑い日盛りだったが、急に甲板上の高射砲が吼え出したので、何事と甲板へ出てみると、遥か上空を四発の敵機がただ一機、白い尾を引いて飛んでいた。それを狙って撃っているらしかったが、届くはずも無く、たちまち飛び去ってしまった。おそらく偵察のための高空通過だろう。これで敵地近くやってきたことが、ヒシヒシと感じられ、心を締め付けた。

 間もなくラバウル港を出て、厳重な警戒を続けながら、ソロモン海域を進み、一昼夜の航海でブーゲンビル島のヴエン地区に入った。ここは南の海岸線で、前にはショウトランド島があり、そこに海軍の飛行場が数箇所あって、連合艦隊の一部も停泊していた。その堂々たる威容の空母と戦艦、飛行場を飛び立つ零式戦闘機の軽快な姿が我々に安堵を与えたが、間もなくこの艦隊も、何処へともなく姿を消してしまい。以後再び見ることが出来なかった。

 ここはまったくの無風地帯で、大小無数の島々には、うっそうと熱帯樹が茂り、波打ち際まで木の枝が伸びていて、少し離れるとまるで海中に木が生えているように見えた。一夜を船で明かしていよいよ二度目の上陸だ。ここにはまだ敵はいないが、人跡未踏のジャングル地帯、一足踏み込めば何がいるかわからないという薄気味悪いところだ。

 上陸した後は、各人の携帯天幕をつなぎ合わせて仮小屋を作り、その中に一塊になって寝たのはいいが、夜半にものすごい豪雨がやってきて、何もかもびしょ濡れになってしまった。その上真っ暗な中でなにやら首筋をモソモソ這うような気配、手をやったとたんに飛び上がるほどの痛みを感じた。どうやらサソリにやられたらしいが、その痛みは一日取れなかった。

 翌日には早速天幕を低く、地面にくっつけて張り、やっと潜り込むようにしたら、どうやら雨だけは凌げた。一番困ったことは、沼に水はいくらでもあるが、海に近すぎるため塩気があることだ。砂を掘ってもすぐに水は出るが、ヌルリとした味でしょっぱい。更にあっちこっちから板切れや天幕の廃品などを集めて小屋を立て、その中に将校以下雑魚寝するという生活が始まった。

ソロモン群島進駐(二)

 師団主力はガダルカナルに進撃するはずであるが、船の都合でもあるのか、一旦この辺りの海岸に仮の宿営をしているようだった。すぐ隣接して衛生兵が宿営していたが、その中に同じ日に応召になった郷土の久保準治君がいて、よく海岸で一緒になったときなど、郷里の話をして楽しんだ。またブリスベン丸では、郷土の高橋君という人も同じ日に応召になっていた。

 我が隊の本部は先に来て、飛行場の近くにいることが分かり、渡辺兵長と二人で連絡にやらされた。定期的に各隊及び船舶間を通う大発に便乗していったが、本部でも低い天幕生活で兵隊も元気が無かった。この時、本部では赤痢患者が出ていた。それで、昼食を食べた際、その菌を貰ってしまったので、一週間ほど経ってから急に発病し、一人で隔離小屋に入れられ、半月以上も死ぬ思いをすることになった。この連絡の用件は何であったか忘れた。帰りに便船が無くなってしまい、仕方が無いので海岸伝いに歩いて帰隊することにしたが、途中かなり大きな河口に出た。橋は無し、もちろん船も無いのでやむなく身包みを脱いで頭の上に乗せ、やっと渡ったが、後であの河口には鰐が出没し、洗濯に出た兵隊が喰われたと聞いて、肌寒い思いをした。

 この島には花らしい花は殆ど見られず、ものすごいジャングルだったので小鳥もあまりいない。時々ギャーギャーというオウムに似た鳥を見かけるだけだった。また、ジャングルには大蛇がいると聞かされたが見たことは無かった。しかし、トカゲのたくさんいるのには驚いた。大は長さ二メートルくらいのものから、内地にいるようなものくらいの小さいのまで、実に様々なのがうようよしていた。

 上陸後三日経った頃、海岸沿いに走る大発の中から、

「防疫給水部。」

 と大声で呼ぶので連絡を出すと、司令部のある佐渡丸(輸送船)まで連絡将校を出せ、とのことだった。すわ、いよいよガ島進撃の命令だろうというので、隊長の山内大尉が出張したところ、軍直轄の防疫給水部の誤りということで、我が隊はここに残留と分かり一同何となくホッとした。