ソロモン群島進駐(三)

 隣にいた衛生隊は全部引き払って乗船した。この時の船団は、佐渡丸以下快速を誇る新鋭輸送船十一隻に、多数の艦艇が護衛してガ島に上陸し、敵と対峙している友軍を助けて一気に島を奪還しようという雄大な作戦であったらしい。しかし、いよいよ明朝この船団がガ島海域に突入しようという日の昼頃、敵戦闘機隊の大挙来襲を受けて、殆ど全滅し、佐渡丸一隻だけが満身創痍の痛々しい姿でこの島へ戻ってきた。そして、それに収容されていた負傷兵をハバナ丸という貨物船に移して仮の病院とし、我が隊からも毎日何名かの衛生兵が手伝いに行った。

 この頃は既に、敵はガ島飛行場にどんどん戦闘機隊を増強して、完全に制空権を握り、日本軍を一隻も寄せ付けない厳重な警戒ぶりだったのだ。さらに二日ほどした白昼、今度はこの舶地に敵機編隊が来襲し、停泊中の船に爆弾の雨を降らせた。佐渡丸は船首をやられ、しばらく走ったがついに横転、ハバナ丸は火災を起こし、すぐ目の前で焼け落ちてしまった。この船などは、敵機が去った後間もなく船橋の辺りからポヤポヤとうす煙が立ち始めたが、すぐに消し止めるだろうと思っていると、乗組員達は消火もせず、我先に下船してしまったので、みすみす六千トンもある船を焼いてしまった。それにしても、あの鉄だけで出来ていると思われた船が、きれいに燃え盛る光景は実に不思議なものだった。

 この頃から次第に敵の空襲が激しくなり、、殆ど毎夜飛行場に来襲した。飛行場の周辺は我が軍の対空砲火の陣地と照空燈(※1)が無数にあって、来襲した敵機を照空燈で捕らえると、これに向かって曳光弾の一斉射撃を加える。実に勇壮で見事なものだったが、それにもひるまず真っ直ぐに突っ込んで来て、超低空で爆撃していく敵機搭乗員も相当な猛者だと思った。中には照空燈の光芒を浴びるとすぐに踵を返して逃げ去る者もあった。しかし、爆撃の都度、我が方の被害は加わる一方で、しまいには滑走路とは名ばかりで、飛行機も飛ばなくなってしまった。すると今度は、その周辺に駐留する部隊の爆撃を始め、不気味な照明弾を無数にばら撒いて、しきりにジャングルの上を飛び回る。こちらはみんな大木の下に小屋を作っているのだから、なかなか見つからないと見えて、弾は一発も落とされなかった。

 しかし、寝ていてもいつやってくるかわからぬ敵機に怯えてよく眠れず、みんなノイローゼ気味になってしまった。そんなわけで、ただただ、雨の降ることを祈った。平和な時なら海岸へ出て唄でも唄いたいと思われるいい月が恨めしかった。こんな状態だから、ガ島で苦戦する友軍への補給も次第に困難になり、駆逐艦による補給もし、更には潜水艦まで使われたが、そんなものは雀の涙ほどでしかなかった。それさえも敵は執拗に爆撃を繰り返して、殆ど友軍の手に入らないということだった。それでも軍首脳部はこの地を棄てることは出来ず、無人島を開いては飛行場を作る計画を進め、我が隊からも使役兵を何名か出すことになった。幸いにもその頃俺は赤痢が治ったばかりだったのでその選に漏れて行かずに済んだ。使役にやられた連中の話だと、英印軍の捕虜を使ってロクな土木機械も無く、コツコツとスコップとモッコで地ならしをしていたということだった。そんな苦労をした飛行場も使い物にならないまま撤収してしまったのだ。

※1:サーチライトのこと

ソロモン群島進駐(四)

 昭和十七年も押し迫ってから、一部の進級が発表されて俺と日野君とが上等兵に進んだ。一緒に入隊した一つ星の仲間では、大抜擢の上等兵だからちょっと嬉しかった。戦地で迎える第一回目のお正月は、酒も甘いものもたっぷりあって、ガ島で日夜敵機の銃爆撃を受けて食物も弾丸もなく、土の穴にもぐってじっと歯を食いしばっているという同胞のことを思えば、まったくもったいないような生活だった。食料は、みんな内地からはるばる送ってくるが、缶詰と乾燥物ばかりだから、生野菜というものを上陸以来一つも口にしていない。これには閉口して、浜辺に生える名もない草や沼地に生える甘藷(※1)の苗に似た葉を食べたりした。

 このころになると、もう湾内には損傷を受けた艦船だけとなってしまった。これさえも敵機は一隻も生かしておかぬぞといった勢いで、毎日空襲して次々と座礁させたり炎上させたりしてしまうのだ。沈没した軍艦の乗組員も、我々の宿舎近くに宿営していたが、陸に上がると余計に敵機が怖いといって、防空壕に飛び込んでいった。

 十八年二月に入り、陸海空三軍をあげての補給作戦のその効なく、遂に我が軍はガダルカナルを放棄することに決した。二月七日より、新鋭駆逐艦十隻を持って、決死的撤退作戦を敢行し、生き残りの将兵を助けてブーゲンビル島へ収容したが、続々と上陸してくる三軍収容者の姿は、まったく生き地獄差ながらのものだった。髪も髭も伸び放題で、服はボロボロ、靴など履いている者は何人もなく、銃も銃剣も赤錆で、その用をなすとは思われなかった。そして、安全地帯へ引き上げたという心の緩みで、砂浜に伸びたまま動けなくなってしまったものも数知れないほどいた。

 こうして命拾いをして引き上げた兵隊たちも、殆どマラリアと栄養失調で倒れ、ジャングルの中に丸太を組み立てて出来た、野戦病院へ収容された。そこへも時々使いにやらされたが、まったくこの世の様とは思われなかった。全然日がささない薄暗い小屋は、丸太を並べたゴツゴツした床にに粗筵を一枚敷き、その上に毛布を一枚を重ね、骨と皮ばかりの病兵が頭を並べて横たわり、虚ろな目を天井に向けてひっそりしている。

 衛生兵はいることはいても手が回らず、三度の食事はおかゆと梅干で、これをバケツで各病人の飯盒の蓋に配って回るだけだ。そして殆どの兵が下痢を起こしているのに便器もなく、便所といってもずいぶん離れたジャングルの中に穴を掘って丸太を渡しただけである。病兵は床から這い出してところかまわず排便するものだから、その汚さは言語を絶していた。更に慄然としたことは、病室の近くに大きな四角い穴を掘っておいて、その中に死者の遺体を投げ棄てておく。クマンバチほどもある金蠅が黒くなってたかっている。とてもその中を覗いて見る勇気はなかった。

 この病死体を解剖して、軍医学校へ資料として送るという任務が防疫給水部に課された。隊長の大田中佐、二階堂中尉の二人が執刀することになり、ほかに下士官一、兵二が使役として付けられた。俺もその仕事に二、三回当たって、近くの野戦病院へ行ったが、病院から少し離れたジャングルの中の小屋に、前日死んだ兵隊の遺体が、棒切れで作った急造担架に乗せられたまま並べられてある。多いときは五、六体もあった。それを片っ端から解剖していくのだが、若い男がよくもここまで痩せられたものと驚くほど骸骨同様の死体や、むくみでまるで俵のように丸くなった死体など、実に目を背けたくなるものばかりだった。初めのうちはその臭気が鼻について、班内に帰っても食事が出来なかった。

 こうして一ヶ月くらいの間に、強いものは再起したが、弱いものは死んでしまい、第二師団は全滅同様となった。戦況はいよいよ我が方に不利となり、ガ島を完全に占拠した敵は、だんだんこっちに押し寄せてくる。空襲は夜となく昼となく執拗に繰り返された。そんな状況下で、突如我が師団は比島方面へ転進することになったが、古い順に内地へ返されるのだ、などと穿ったデマを飛ばすものもいた。ともかく、刻々と戦況が不利に傾いていくこの南西の島から、一刻も早く安全な場所へ転進したいのは誰も同じだった。

※1:サツマイモ

ルソン島転進(一)

 昭和十八年四月初旬、師団生き残りの将兵は、たった一隻のボロ貨物船に詰め込まれて、たった一隻の駆潜艇に守られて、半年間住み慣れたブーゲンビル島を離れた。この頃は既に敵の制空権下にあり、海上は敵船の目が光っていたが、幸いにして一度も脅かされずに一昼夜の航海でラバウル港にたどり着いた。

この船には撃墜した敵機の搭乗員二人が両手を縛られて乗せられていたが、どこへ連れて行かれたのかその後のことははっきりしなかった。三千名近い人員を五千トン級のボロ船一隻に詰め込んだのだから、全員が背嚢に寄りかかってしゃがみこむだけで、とても横になるなんて出来ない有様だった。もしあれを敵機または敵船に発見されて攻撃されていたら、一人残らず海底の藻屑となったであろう。まったく思い出しても皮膚にあわ立つ思いだ。ラバウル港に入った船は、港の入り口に近いコーポという地区について、一旦そこに上陸し、幕舎を作って待機することになった。ここは、湾内を見下ろす丘の上で、椰子の林が続き、実に景色のよいところだった。濾水車四台はソロモンへは行かず、ずーとここで待機していたので、これで全体隊員ガ揃ったわけだ。やはり何もすることがないので、毎日幕舎でゴロゴロしていた。時々は、ひるまでも敵機が来襲することがあったが、我が方には、もう殆ど戦闘機はないということだった。それに、ニューギニア方面の戦況もいよいよ悪化していた。この方面からも、生き残り将兵を満載した船がよく痛々しい姿で港に入ってきた。

コーポは、ラバウルの市街までは二里以上も離れたところで、ろくな商店もなかったが、軍の慰安所は一ヶ所あった。そこには駐屯部隊が日割りで行くようになっているということだったが、我が部隊は通過部隊なので行くことはなかった。作業のときに通ってみたら、なんと飯盒持参の兵隊が、延々と列を成して順番を待っていた。その脇を、グデングデンに酔っ払った大佐が副官らしい若い将校に支えられてヨタヨタと通って慰安所に入っていった。なんとも浅ましい姿であると吐き出したい気持ちだった。

 わずか二週間くらいここにいたが、注射を受けて寝ていた日が多かった。五月になってまもなく、再びボロ貨物船(アデン丸、六千トン)に鮨詰めにされて長い航海に就いた。乗船人員はジャワへ渡るときの三、四倍多く、とても甲板に小屋を作って涼むなどの芸当は出来はせず、蒸し暑船底でハアハア言いながら寝ていた。十日間ぐらい走って船団(といっても三隻と護衛駆逐潜艇二隻だった。)はパオラ湾に入ったこの島はさんご礁に囲まれ、港の入り口は実に浅く一隻ずつやっと通れるだけの水路が開いてあった。水は実にきれいで、船の上から水底のさんご礁や魚がよく見えた港といってもたいした施設はなく、停泊の船も少なかった。ここで一日くらいは上陸許可されるのだろうと期待したが、とうとうその望みはかなえられずに再び航海の途に就いた。このころ、この周辺の敵潜の暗躍は実にものすごいものでパラオ港入り口には、既に何隻かの輸送船が沈められているということだったが、無事通過することが出来た。

ルソン島転進(二)

 港内にいるとき、ニューギニア方面に行く大型輸送船とすれ違った。その船には兵隊が満載されていたが、あの敵機の跳梁する南海の島へ追いやられる同胞に対して、手を合わせたい気持ちで見送った。更に一週間ほど退屈で不安な航海が続いた。あるときは、敵船あらわるの警報に船内は大騒ぎとなり、救命胴衣を着けるやら、装具を整理するやら大変だったが、鯨の誤認と分かり、大笑いの一幕もあった。いよいよ明朝マニラ湾に入港という夜は、もっとも危険な海域とあって、全員非常体制で警戒に当たったが、幸いに何事もなく、夜明けと同時に船団は一斉にマニラ湾に入り、横隊形となって進んだ。

 初めて見るコレヒドール島は、かつての激戦を思わせる生々しい砲弾の跡や、痛々しい米軍施設も見られた。波打ち際には、乗り上げた舟艇や輸送船の赤い腹も見えていたが、マニラ湾はまったくも無傷で、紅い灯、青い灯がともって、まったく別世界だ。半年以上も電灯もない暗黒世界に暮らしてきた後だけに、一層その印象は鮮烈だった。

 入港した翌日には上陸を開始したが、街には商品が豊富にあり、人々の服装は華やかで、どこに戦争があるのかと思うほどだった。一方では、日本軍人の姿がすごく多く目に付いたのと米軍の捕虜が素裸身に越中褌を締め、バクバクの靴を履いて、埠頭で荷役をさせられている姿が目に入った。やはり今は戦争中であるということを、いやというほど身近に感じられた。

 かつて支配者としての優位にあったことから、人を人とも思わなかったであろう米人が、現地人と同じ皮膚の色をした日本人に馬同様にこき使われているのだから、さぞや悔しかろうと思われるのだが、本人たちの顔をを見るとそんな感じはまったくといっていいほどなく、極めて朗らかに立ち働いていた。もうすっかり諦めているのか、あるいは必ず米国が勝つという将来を確信しているのか、又は民族そのものの楽天的性格からきているのか、そのいずれも含んでいるのかもしれない。

ルソン島転進(三)

 バンドンで面白い目をしてきたので、マニラ市内でもまた贅沢な生活が出来ると喜んだのもつかの間、装備を陸揚げし終わるとすぐに市内を通り抜け、ルソン島中部の小都市「カバナツアン」の周辺に駐屯し、内地からの補充を受けて師団は再編成されることになった。我が部隊は「ゴンザレス」という部落に、前に駐留した部隊の残した竹とニッパ椰子で兵舎を作り宿営することとなった。この付近には水田はなく、畑も少ないので、野菜が手に入りにくく、毎日甘藷の苗に似たものと南瓜ばかり食したのには閉口した。しかし、果物はマンゴー、バナナなど豊富で、現地人商人が酒堡と呼ばれる商店で安く売っていたので、たっぷり食べられた。酒類も豊富で安く、特にジンが旨かった。

 ここに来て一番嫌な感じを受けたのは、日本軍を本当に信頼するものはいなくて、みんな公然とアメリカが最後の勝利を得て戻って来ると言っているくらいだから、金銭づくの取引以外の好意というものが認められないことだった。それだけでなく、密かに米国側と連絡を取っているゲリラ隊が出没して危険でもあったので、部隊間の連絡など単身では絶対に出られないと言われていた。

 一度マニラまでトラックで外出したことがあったが、さすがに首都だけのことはあった。旧王城付近は壕を巡らした建物などもあり、東京の宮城を小型にしたような建造物もあった。街はきれいで、立派なレストランや映画館もあった。また、現地人、華僑、朝鮮人などの娘を大勢置いた公私の慰安所も軒を並べていた。ここでも現地の女は、兵隊を小馬鹿にした態度がはっきり認められて不快だった。

 ここにいつまで駐留するのかさっぱり分からないが、とにかくすぐに移動する気配はなく、内地から補助人員がかなり大勢来たので、我々もどうやら古年兵扱いを受けられるようになった。補助兵はみんな若い二等兵ばかりで、我々から見るとまるで子供っぽい連中ばかりだった。この部隊は、召集兵ばかりで編成されたから、新旧の間の厳しい規律というものがなかった。入ってきた初年兵達はすぐに気安くなって、古年兵と友達みたいになってしまい、兵営特有の陰惨な私刑みたいなことは、一つも行われず、極めて和やかなものになったのは一番嬉しかった。

 ここで、部隊長の大田中佐は内地へ転勤になって帰還し、代わりに朝鮮軍にいた沼少佐が赴任した。この人は二才は若いがいたってくだけた人で、その歓迎会食の時など、兵隊の一人一人に酒を注いで回ったりした。そのうちに、現地人の宣撫のためといって、タガログ語の講習を師団の参謀部がやることになり、部隊から選ばれて二週間ほどカバナニソアンに派遣された。各部隊から一人から四人ぐらいが選抜され、また選ばれたものが、二十人ほど集められて現地人の女の教師から、会話の訓練を施された。僅か二週間くらいだったので、実用とまでは行かなかったが、現地人との心のつながりにはかなり役に立ったと思われた。

 部隊長が内地帰還になったことから、兵隊たちのうちにも、四年兵は帰還とか、五年兵までだとか、本当らしい復員話が出たが、結果は何の根拠もないデマだった。そしてまたまた他へ転進することになった。この時、思いがけない福音だったが、私物を内地へ送る便があったので、一応憲兵の検閲を受けた上で、靴、パジャマ、写真、椰子の実の煙草入れなどを送った。

マライからビルマへ(一)

 昭和十八年十月、四たび輸送船に乗ることになり、マニラ湾に集結した。今度もリマ丸というボロ貨物船で、六千トン級だった。もうこうなると内地帰還の夢を追うより。この次はどんな土地へ行くのか、それを楽しみにするほかなかった。航海はやはり退屈なものだったが、今度は一番短く、一週間ほどでシンガポール港に入港した。ここは、東洋一といわれる美しい港だけあって、山に囲まれた深い入江が幾つもあり、どこにも大きな輸送船が横付けになっていた。支那人苦力(クーリー)(※1)が薄黄色の支那服に、菅笠(スゲガサ)をかぶって荷役をしている姿が目に映った。どこの港でも見慣れた潮焼けした逞しい男のほかに、女苦力の多いのにも驚いた。

 街の風景は、英国三百年の東洋植民地の基地として発達した場所とは思われず、まったく台湾で見た支那人の街と少しも変わらなかった。町並みはそうでも、通る人間はまるで世界人類の見本市の様で、白、黄、黒と、色とりどりの皮膚の色は実に異様で到底日本では見られないものだ。しかし、その名も昭南と改められ、あまつさえ神社まで伊勢神宮そっくりに出来ていた。

 三日ほど市内に仮宿してから、自動車を連ねてジョホール水道を渡り、マライの首都クアラルンプールに入って、そこの学校を接収した建物に落ち着いた。この街は戦禍の跡も無く、落ち着いたいい所で、日本映画を上映する常設館も二つあり、日本人の経営する食堂なども何件かあって、内地の街にいると同じ享楽が出来た。ここに宿営中にマライ進駐部隊の連合演習があり、我々もこれに参加して「イポー」という小さな街へ行ったことがあった。この辺りは有名な錫(スズ)の産地で、至る所で巨大なコンベアを使って露天掘りをやっていた。それとゴム園経営がこの地方唯一の産業で、食料はほとんど国外から仰いでいたが、戦争でバッタリ入らなくなったのだから、一般国民の食糧難はかなり酷いものだった。我々の炊事場には、その残飯をもらうため、毎日数十人のマライ人、支那人、インド人が群がり集まった。飯盒を洗った場所に散らばった飯粒を、一つ一つ拾っていく姿は、実に深刻だった。こうした原住民の中には、我々が宿営している家屋の持主も混じっていると聞いては、戦争の罪悪をつくづく感じないわけにはいかなかった。

※1:東南アジア諸地域の肉体労働者

マライからビルマへ(二)

 この演習中に、将校との連絡にトラックで出かけたことがあった。帰路、二十九連隊の若い将校二人が便乗を申し込んできた。その便乗者が奢るとも言わないのに途中で酒場の前に車を止め、奢ってもらうつもりでウイスキーを注文したりして飲み始めた。すると先方も、この呑兵衛どもと付き合ったら、大変なことになると思ったのか、自分等の分だけ支払ってさっと出てしまった。さあそうなると誰も金を持っていないから、支払いが出来ないということになった。俺はそのくらいの金は持っていたが、相棒の諸橋、窪田、鎌田などあまりに柄の悪いやり口に嫌気がさして出す気にならず、持っていないと言い張った。このことが憲兵隊へでも通報されるとまずいということになって、そこから遠くないところに宿営していた森川中尉のところへ行って泣きついて金を出してもらい、やっと支払った。ところがこれが将校に対する礼を失したものとして後で問題になり、どうやら処罰だけは免れたが、以後三回くらい外出をとめられてしまった。

 その店を出た時はすっかり夜になっていたが、一杯飲んだ勢いでまた他の飲み屋へ入った。そこに先客の若い女がいて、我々のそばに来て盛んにモーションをかけてくるので、これは面白いと窪田、大塚などが手を出すと、なすに任せている様子、いよいよこれはものになるらしいということになり、店を出るとき合図したら付いて来た。そして自動車に載せて街外れへ出てみんなで遊んだが、誰も金を払わなかった。もしあの時その女に騒ぎ出されたらどんなことになったか、まったく冷や汗が出る。幸いにも?女は不平も言わずに帰ったが、やはり天罰は間も無く下った。

 いくらも走らないうちに自動車がエンコしてしまったのだ。さすがに鎌田運転手はベテランだった。その原因をすぐに発見して、用意してあったファンベルトを取り替えにかかったが、何しろ真っ暗な原っぱの真ん中だったので照明は無く、持参のライターの火を頼りにしているものだから作業は思うにまかせず焦ってしまった。そのところへ日本人ハイヤーが通りかかってライトで照らしてくれたが、諸橋が酔っ払っていて、下手なお世辞を言ったりしたからその邦人も愛想をつかし、作業の終わるのを待たずに行ってしまった。占領地帯とはいえ、抗日ゲリラも出没するといわれている真夜中の出来事だったから、まったく無事だったことが奇跡だった。もう夜明けも近い頃やっと宿営地へ戻ったら、部隊全員が大心配していた。

 またある日曜日の外出、井上上等兵が泥酔して街中の通路上に寝ていたところを、師団司令部の乗用車に拾われて部隊に送り届けられた。彼は再々の帰営遅刻で遂に営倉処分を喰った。野上上等兵なども営倉を喰った。この駐屯生活は、はめを外した出来事が多く起こった。

マライからビルマへ(三)

 この辺りでも果物が何よりの慰め品だった。特に強烈な匂いとトロリとした甘い味で有名なドリアンが美味かった。これは木からもぎ取ってそのままおいたものはホントの味ではなく、自然に落ちたものをすぐに拾って食べるのが一番良いとされていた。師団の倉庫警備に当たっているとき、その辺りにあるドリアンの大木からドタンと落ちてきたのを拾って食べたときの美味は、何とも言えず美味しかった。

 こんな呑気で愉快な生活は、戦争に借り出された兵士に長く続く筈は無く、十八年も後二ヶ月というところで、ビルマ方面の戦線が苦戦に陥り、歩兵部隊は飛行機でインド国境のインパール戦線へ増強された。やがて我が部隊も、タイ、ビルマ国境へ転進を命ぜられた。

 ここでまた部隊は二つに分けられて、本隊は泰緬国境の「アランショウ」というジャングル地帯へ先行し、そこで働く鉄道施設隊の防疫業務に就くことになった。残った隊員は、泰国の「カンチヤナブリー」という小さな町へ駐屯して、この付近の鉄道部隊の給水にあたることになった。またまた良い籤(クジ)を引き当て、本隊のジャングル生活に比べたら天国の、商店も慰安所もあった小さい街で暮らした。しかし、駐留後まもなく南方軍防疫給水部、泰派遣隊へ業務補助兵として派遣された(石沢、斎藤と三人)。この部隊は、秋田、山形両県出身者が多かった。現地人を集めて、即製の衛生教育をやっていたので、現地語の出来る者は徴用軍属であっても長刀を吊って威張っていた。

 昭和十九年の正月は、この国境の町でささやかに迎えた。餅と酒はまだ豊富だったが、戦局はますます苛烈を極め、ソロモン群島方面では友軍は後退を続けていた。印緬国境でも戦線は膠着状態にあった。膨大な前線部隊へ補給のためには、雨季に入る前に是非とも泰とビルマを繋ぐ鉄道の完成を見なければならなかった。それでインド、ビルマ、泰、マレーの各地から数万の労務者を集めて、まるでありが道を作るような鉄道施設工事が強引に続けられていた。これら現地労務者の宿舎たるや、まったくこの世の地獄の様相と呈していた。栄養不足と悪疫のため、次々と倒れた労務者はその数を知らない。このような状態であったから、作業は遅々として進まないようだった。ここで倒れたインド人労務者の娘で、八、九才になるのが派遣隊に拾われ、小間使いのようなことをしていた。この娘が話し方の天才で、日本語、英語、マレー語、インド語、支那語と五つくらいの言葉を使い分けて重宝な通訳だったことには驚かされた。

マライからビルマへ(四)

 このころ、ビルマを横断して泰、仏印にある我が基地を爆撃するB二十九が、よくこの街の上空を通過したが、その都度空襲警報で非難させられるので閉口したが、幸いに爆撃を受けたことはなかった。この辺りの泰国人は、日本人とよく似ていたが、男女ともに髪を角刈りにして殆ど素足で、黒っぽい着物で実に殺風景だった。しかし、女達の中には洒落たワンピースを着て、日本軍に春を売りに来る者もいた。

 石沢、斎藤の三人で、昭南まで、現地人労務者を受領しに出張したことがあった。バンコック発昭南行き国際列車に乗って出かけたが、途中、アヒルのゆで卵ばかり食べたら、腹をこわしてまいってしまった。泰でもマライでも、大量のアヒルを野原に放し飼い同様にし、長い竹竿で追い回しながら湿地帯を歩かせているのを見受けた。アヒルの卵は実に安かった。受領した労務者は、インド人、支那人、インドネシア人など取り混ぜて百名くらいで、貨車に詰め込んで輸送した。捕虜ではないので逃走の心配はなかった。俺たちの任務は、昼の食事などの世話をすることだった。彼らは人種も違い、言語も違うが、英領に住んでいるだけに、大体英語なら通じるらしく、車内では賑やかにしゃべりまくっていた。一人病気を起こした者があって心配したが、持参のキニーネを飲ませたら治ってしまった。マライから泰国を旅行してみて、あまりにその違いの大きいのに驚いた。一歩泰国へ足を踏み入れると、駅の建物も、街々の風景も、人の表情も、陰気で薄暗いものだ。

 ここには英印軍の捕虜が多数働かされていたが、インド兵のグータラなのに比べて、英国人のテキパキとしていたのにはさすがと思われた。貨車の積み込みなど、それが自分等の同胞を殺す仕事に協力することになるにも拘らず、実に真面目に気に入るまで、何回もやり直している姿は、頭の下がる思いだった。人と人の繋がりでは、お互いに信頼しあっているのに、どうして国と国とでは争いが絶えないのだろう。

マライからビルマへ(五)

 昭和十九年二月に入ってまもなく、原隊復帰の命令が出たので、本体の分遣隊に戻り、やがてビルマへ転進することになった。開通間もない泰緬鉄道の貨車に乗り込んだが、開通したといっても木橋を渡る危険な鉄道なので、一キロ走ると一休みといった具合で、ビルマの東橋にあるモールメンまで三日かかった。

 一歩ビルマへ入るとここはまた、まるで違った土地へ来た感じだ。街は殆ど爆撃で破壊され、樹木も少なく、何から何まで干上がった感じだ。それもその筈、ビルマ南部では、秋から冬にかけては一滴の雨も降らないのだ。川は一滴の水も無く、他は白く乾ききって岩のように堅くなり、木の葉も埃をかぶって白くなっていた。部隊の宿営も、蚊帳さえあればよいというので、野天に蚊帳を張って寝たこともあった。

 やがて部隊は、イラワジ川の下流のデルタ地帯の街、バセインに駐留することになった。この街は爆撃も受けていなかったが、何故かすっかり寂れていて、商店にはろくな品物も無い、実に殺風景なところだった。住民は殆どがビルマ人とインド人だが、いずれも栄養不足で皮膚病にかかっており、不衛生極まるものだった。そこで我が隊は手分けして住民の防疫活動を助けることになり、土地の吏員に手伝わせて片っ端からコレラやチフスの予防接種をした。おかげで輜重兵である俺たちは、注射器を握っていっぱしの医者気取りで住民の腕にぷすぷす針を刺して、わずかな快感を味わった。

 そのうち、そろそろ雨季が近づこうという三月末頃、またまた分遣隊を編成してバセインから更に西へ、イワラジ川に沿ってのぼり、ブロームという街に入った。ここは完膚なきまでに破壊され、街の中心はまったく瓦礫の山で、辺りの寺院とパゴダがわずかに残っただけだった。我々はその寺の一軒を宿舎としてこの辺一帯の防疫にあたることになった。隊長清水軍医大尉、下山軍曹、鈴木伍長以下、わずか十五名ほどの人数で、またまたおよそ軍隊らしくない生活が始まった。朝夕の点呼も不寝番も無い、その土地の人が毎日遊びに来るといった至って和やかなものだった。それでも時々米軍機の夜間爆撃があって、戦時にいることを思わせた。ただ食料としての野菜が極度に欠乏していることは辛かった。なにしろ、毎日内地の夕顔に似た瓜ばかりだからやりきれない。しかし、ここからいくらも離れていないインド国境で、英印軍と対決している前線部隊の労苦を思えば、もったいないような話である。

 この近所に日本人を夫にして、二人の子供がいるビルマ婦人が住んでいた。日本語はペラペラだし、愛嬌もある人で、よく遊びに来て何かと食物などをくれたりして慰めてくれた。二人の子供は花子に太郎という日本名を持っていて、上の女の子は十二、三才、下の男の子は十才くらいだった。戦前にこの地へ渡って所帯を持ったが、戦争のために現地徴用になって入隊しているということだった。