大東亜戦争従軍記

祖父の従軍記

ジャワ島上陸(六)

翌日も一路東へ向かって自動車進撃を続けたが、敵はどこへ行ってしまったのか、何の情報も無く、また戦闘状態も起こらなかった。「チャンジョウール」という街へ入ってみると、あっちこっちに砲弾による破壊の跡があり、火災を起こして焼け落ちた民家も何件かあって、まだくすぶっていた。

その街の中心部と思われる辺りの道路上に、オランダ軍兵士の死体が十数人も転がっていて、中にはまだ生きているらしいのもあった。しかし、土地の人は一切それらに触れようともせず、我々日本兵に対する歓迎の仕草で一生懸命だった。中には白人家屋の略奪品と思われる上等の家具を二、三人がかりで運んでいるガッチリ型もいた。だが我が兵隊の中にも何か物欲しそうに焼け跡をうろついて隊長に怒鳴られたものもいて、土地の人を笑えぬひとコマもあった。

この辺りから、沿道いたるところに白人の乗り捨てた乗用自動車が溝に片輪落ちしたものやら、電柱にぶつかったままの物やらが見られた。また自動小銃や機関銃も無数に捨てられてあったが、誰も目をくれなかった。

進むに従って、ジャワ島の中心部に入ったらしく、田や畑が広々と開け始めた。ここでは年中雨が降り、米は後から後からとれるということだった。そのため、稲刈りと田植えが隣接した地区で行われているのも見られた。稲は日本のものと違って藁が長く、固くて、穂は種がまばらだが日本種の三倍の大きさだ。これを藁ごと刈るのではなく、老若男女数十人が一団となって田へ入り、小さな刃物で穂首からもぎ取って、これを日本の落穂拾いのようにひと掴みづつ束ねて、両手に持てるだけ持って延々長蛇の列を成して部落へ帰るのだ。実にのんびりした、まさに原始時代の生活である。家に集めた稲穂は、庭一杯に広げてよく乾燥させ、牛に踏ませて粒を落としてから袋に詰めて、政府の精米工場に納めるということだ。

道路は舗装されていて、両側に大きなねむの木が立ち並び、南国らしい風景を繰り広げている。部落には大小色々の椰子の木や、バナナの葉が繁っていた。逃げた蘭印軍が友軍の追撃を阻むために、道路上の並木の幹に穴を開けて、爆薬を仕掛けてあるということだったが、余りに急な進撃にそのいとまも無く、そのままになっていたが、所々倒されていたところもあった。

上陸第二日目の夜も沿道の部落で仮眠を取ったが、ここでは大勢の現地民がやってきて、手真似や表情で盛んに我々を歓迎してくれたが、彼らに取り巻かれていると、実に妙な体臭が漂い、気分が悪くなった。

その後、現地人の密告で近くの部落に大型トラックが隠されているというので、四、五人で銃を持って行ってみると、現地米の袋を満載したまま車庫に入れてあったが、大事なキャブレターを取り外してあるため動かず、仕方なく現地人に手伝わせて押し出して宿営地まで持ってきたが、結局どうにもならず、つんであった米は全部現地人にくれてやった。