作成者別アーカイブ: 駒形真幸

終わりに

※本編をまだ読んでいない方はこちらからどうぞ。

従軍記はこれでおしまいです。

祖父は帰国後、三女をもうけ、平成四年一月十六日、享年七十八歳で亡くなりました。

生前はお酒好きで寡黙で几帳面な人というイメージしかありませんでした。戦争に関しても、「マラリアで死ぬ思いをした」ということしか聞いてなかったので、それで帰国したのかなぐらいに思っていました。まさか砲撃を掻い潜るような体験をしていたとは知りませんでした。

全体を通して戦争が日常の延長にあることを強く意識させられました。それだけにあれだけ大変な目にあっておいて、「もう戦争はこりごり」が感想というのも強く共感させられました。

この従軍記のブログ化は原本をまとめおこした父をはじめ、母にも大分手伝ってもらい、感謝しています。

最後にここまで長々と読んで頂いてありがとうございます。従軍記というと私達とは関係の無い遠い昔の出来事のように思ってしまいますが、昭和十六年にブログがあったらこんな感じなんじゃないだろうかという具合に、気楽に読んでいただけたら幸いです。

帰国葛城丸乗船(六)

やがて列車はひっそりと静まりかえった浦佐駅へ滑り込んだ。ふとみるとその改札口の柵に持たれて列車の窓を見ている母子の姿があった。それこそ、再び会うこともないと一度は諦めた最愛の妻と、まだ見ぬ娘の二人だった。あまりの嬉しさに、飛び出すように降りてしまってから、水筒を車窓に忘れたことに気付き、慌てて引き返してやっと発車間際に中の人に取ってもらう始末だった。

駅頭で五年ぶりで再会した妻にたいしても、何から話をしていいか分からず、ただ一言、

「何だ迎えに来ていたのか」

と言っただけだった。しかし、この短い言葉の中に、五年間の苦労に対するいたわりと再会
の喜びが腹一杯にあった。その妻の腰にすがりついていた節子の、丸い、あどけない顔には、父に対する感情など全然なく、まずよその男の人という感じだった。駅前の裏寂しい風景もちっとも変わっていない。こうして連れ立って歩いていると、まるで五年間の戦争などなかったような、昨日からの続きのように夫婦で子供を連れて暮らしているような錯覚を起こす。

新町の家では、すっかり家を片付けて待っていてくれた。ここでも五年ぶりの再会という気分はなく、兄夫婦もたいして年をとっているとは思えなかった。しかし、姪たちがみんな大きくなっていたのには、やはり長い空白があったことを感じさせられた。駅前の銀飯と味噌汁の味はまた格別で、生きて帰った喜びが更に実感となって心身に滲み込む思いだった。そこへ実家から兄が髭面でむかえに来てくれ、リックを背負ってもらって、今度は四人で家へ向かった。途中の風景も少しも変わっていなかったが、五年前の秋、この道をトボトボと後ろ髪引かれる思いで駅へ向かったときのことが、ついこの間のことのようにまざまざと思いだされ、一寸嫌な気持ちにもなった。家では近しい親類だけを呼んで、下向振る舞いをやってくれたが、席上あっちにもこっちにも戦死者が多数あり、また未帰還の者が相当ある話が続き、心を暗くした。村では、善六阪の充男一郎、中道の常作、伝兵衛籐の伝三、小沢新宅の総欽、冶右門の忠太、鍛冶の春一など、俺たちより幾らか若い組に大勢の戦死者があった。それに引き換えて、年上の層に当たるものは、応召者も少なく、戦死者は一人もなかったことは喜ばしいことだった。

小沢の大将、九兵門新宅などはれっきとした現役出でありながら、召集にならなかったというのは不思議なくらいだった。家での小宴会を終わって、十時過ぎに妻が借りていた本田の「ふるどん新宅」の前の一軒屋に落ち着いて、ホッとしたところ、妻は始めてこの胸に崩れ込んで五年ぶりの再会を泣いて喜んだ。思えば、明日いよいよたつという夜は、一分を惜しむように固く抱き合って寝たが、連日のドサクサで疲れきっていたので、ついうとうとと三時間くらい眠ってしまった。それが本当に悔しいほど、切ない一夜だった。もうどんなことがあっても決して離れまい、離すまいという気持ちが、お互いの胸を去来した。

もう戦争はこりごりだ。平和こそが人間の幸福を保つ絶対の条件である。

帰国葛城丸乗船(五)

まず受付へ顔を出すと、一番先に高谷君がいて「やあ。」というわけで、初めてわが古巣へ戻ってきた感じがした。署長も警部も口端が張った人だったが、警務主任の山下さんが戦前に部長で一緒だったので、早速署長(三瓶)さんに引き合わせてくれて、型通り復員の挨拶をした。堂々たる体躯の三瓶署長だったが、いろいろとやさしく、出征中の労をねぎらってくれ、その後、警務の高橋宗男部長さんから休暇のこと、被服や給料のことなど細かい説明を聞いた。それですっかり落ち着いた気持ちになった。特別慰労休暇は三十日で、出勤の時配置も決まり、被服も全部支給されるということだった。これで職についての問題は無くなったが、次が住宅の心配だ。しかし、一ケ月の休暇中に何とか見つけけられるだろうと思い、すっかり安心すると急に郷里が恋しくなり、一時間も早く飛んで帰りたいが、もう夜行でなければ汽車がないので、仕方なく夕方まで署内で休んで、出征前からの古顔と久しぶりの挨拶を交わしたり、その後の模様をいろいろ聞いた。随分大勢の出征者だったが、大部分はもう復員して、戦死者は案外少なかったことも分かった。それでも、長谷、峯村、海保など、五、六人は帰らざる勇士となってしまったと聞き、暗然とした。

夕方 上野駅へ行って見ると、数少ない列車を待つ人々は、延々長蛇の列を作って、公園内にまでのびていて、どの顔もすっかり疲れきって、茫然とした態たらくで、立っているものは殆どなく、みんな地面に腰を据えていた。その間を、汚い身なりの浮浪児がウロウロと歩き回り、人々が何か食べてもいようものなら、その前に集まってこれをねだり、断ると唾を吐きかけて逃げるという悪どさだった。列車の混み様は、また一通りでなく、ホームへ滑り込んで、まだ止まらない車の窓からどんどん這入りこみ、それこそ殺気だった大騒動だった。それでもどうやら俺も乗り込んでやれやれと思ったら、少しうとうととしたようだった。深夜の汽車の列として、停車時間が長く、気がはやるのと逆行するように、なかなか進まなかった。それでも夜明けに新潟県内に入り、五年ぶりで見る故郷の山々は、新緑に包まれ、山村には戦争の跡もなく、平和そのものの姿だった。並みいる田園は今代かきのまっ盛りだが、まだ男が少ないらしく、殆どが女のようだ。中には夫を戦場で失った若い未亡人も多いことだろうと思うと、こうして無事妻子の元へ帰っていく自分の幸福をしみじみと感謝すると共に、異郷の山野に白骨となって散らばっている戦友たちに対して、申し訳ないような気持ちで一杯だった。

帰国葛城丸乗船(四)

東海道に入っても、殆ど都市という都市は全滅の状態だった。特に京浜地区へ入ると、見渡す限り焼けた鉄屑とトタン板ばかり、六郷橋を渡ると、遮るものがないので、もう宮城の森がすぐそこに見える有様だ。その中に点々と焼けトタンでふいたバラックが連なっていた。それでも鉄道は殆ど無傷で、車両数は相当動いているのでホッとした。列車が東京駅へ入ったので、全部乗り換えた。何よりもまず、元の職場に復することが出来るかどうかが一番心配になったので、すぐ駅前の交番へ行き、そこで勤務していた若い巡査に様子を聞いてみると、復員者は全部元の所属へ出頭して勤務するようになっているということでホッとした。服装は戦前と同じでサーべルを吊るしていたが、ひどく食糧事情が悪いらしく、顔色も悪く、ブツブツ不平を洩らしていた。

再び駅へ戻り、八王子までの切符を買うのかと思って聞いてみたら、復員者はその切符でいいというので、すぐに中央線の電車に乗り込んだ。車中で時々、どちらからの復員かと聞かれたが、その相手は大抵、中年の婦人で、おそらく自分の夫か息子かが未復員なので、それとなくどの方面からの復員者かをあたってみて、同じ方面からだったら、様子を聞きたいという気持ちがあるからだろうと思われた。

八王子へ近づいて、今度は逆に驚いたことは、丸焼けといわれた町がすっかり屋根で埋まっているようにみえたからだ。ここは東京と違い、殆ど土着の人で、疎開もせずにいて焼けだされたので、既にこのようにバラックができたものだろうと思った。しかし、電車から降りて、一歩町へ踏み入れてみると、駅を始めまったくの間に、間に合わせに出来たバラックばかりで、応召前の姿はどこにもなく、まるで違う土地へ来た感じで、すっかり戸惑ってしまった。駅前には、元の場所に交番が出来ていて、巡査が勤務していたので立ち寄り、身分を証して警察の模様を聞いてみると、本署の建物は残っているというので、ホッとした。そこへ荷物を預けて、歩いて署まで行ってみると、なるほどすっかり焼けてしまった中に、署だけがポツンと残り、すすけた姿が、戦災当時の火の恐ろしさを物語っていた。

帰国葛城丸乗船(三)

国破れて山河ありというが、無数に散在する島々の姿は、敗戦の痛手などどこにも見られず、いたってのどかな風景だった。上陸地点大竹港には夕方投錨し、翌朝すなわち昭和二十一年五月十八日に、五年ぶりで故国の地をしっかりと踏みしめた。ここには海水潜水予校のあったところだということだが、爆撃の跡もなく、兵舎などもすっかり残っていて、そこで身ぐるみ消毒されて、とにかく無事で帰って来たというお祝いに、量は充分とはいえなかったが、赤飯をいただいたときは、やはり誰の顔にもホッとした色が隠しきれないようだった。乗船地で預けたお金や、郷里までの旅費や、携行食糧の乾パンなど貰ったり、復員証明書を受けたりで二日はかかり、二十一日に各方面ごとに列車に乗って、入隊以来辛苦を共にした多くの戦友とあっけない別れを告げて郷里へ向かった。

列車が進むに連れ、沿線の被害状況のあまりのひどさには、まったく涙も出ないほどの痛ましさだった。町という町は、殆ど焼けただれた鉄屑と土蔵だけを残すのみで、その間に焼けトタンで囲った乞食の巣のような家がポツポツ出来ている程度だ。特に広島市の惨状は徹底したもので、一木一草も残さないとはこのことかと思った。しかし、不思議なことに、鉄道施設は殆ど残ったのか、復旧したのか知らないが、元のままのようだ。

兵庫県に入って赤石、神戸から大阪、京都にいたる間は、まるで焼け野原の中を走っているようだった。京都で北陸線経由で新潟県内へ入るものと、東海道線をのぼって東京から福島、宮城へいくものとに分かれたが、俺は妻子のことより職場の方が余計心配だったので、まず八王子へ廻って、復職出来るもたのかどうかを確かめてから郷里へ戻ることにし、宮城、福島組と共に東海道線をとることにした。

帰国葛城丸乗船(二)

葛城丸は、新鋭空母として、就航後まもなく空襲を受けて飛行甲板をやられてしまったとか、悲運の巨船だそうだが、近づいて見ると、その堂々たる雄姿は見上げるばかりで、船内へ入って更にその巨大さに驚いた。三段に仕切られた兵員収容室は、飛行機の格納庫だったというが、各階一千人を収容できるという広さで、向う側まで見通せないほどだ。甲板は大きく隆起して、小山のように無様な姿となっていたが、その広さにも一驚した。その周囲に無数にあったであろう機銃はすべて取り外され、ただ丸いベランダ風の座席だけが残っていた。更に内部へ入って見ると、大小の部屋が無数にあって、うっかりすると迷子になりそうだ。その中の一室に、内地の主な都市の罹災状況が地図によって示されていた。それによって初めて、ひどい空襲の被害が分かり、慄然とした。

大東京を始め、全国の主な都市はほとんど全滅で、八王子市もわずかに周辺が残っただけで、まる焼けになってしまったことが分かった。妻子は故郷へ帰しておいたから、無事だったと想うが、職場の方はどうなったのだろうか、果たして元の職に返れるだろうか、もし何もかもメチャクチャになっていたとしたら、一体これからどうして生活していけるだろうか、新たな不安が黒雲のように襲いかかってきた。かてて加えて、乗船以来食事の量があまりに少なく、到底満腹とはほど遠かったから、前途の食糧不足が思いやられて、ここで初めて敗戦の悲哀をしみじみ感じさせられた。

それでも始めの二、三日は、海上は静かで、快適な航海だったが、船が台湾海峡にさしかかったころ、ものすごい暴風圏に入り、この巨船の飛行甲板にまで波しぶきが上がった。しかし、艦内にいると、暴風雨など一向に感じられない安定さだった。五昼夜走ったころ、左舷に九州の灯を見たときは、更に故国へ帰る喜びが胸に迫った。一方上陸後の身の振り方等について、深刻に心配しだした者がだいぶいた。やがて艦は、富後水道から瀬戸内海に入った。

帰国葛城丸乗船(一)

昭和二十一年四月もすぎたころ、突然帰国が実現することになり、部隊はサンジャ港ちかくの仮兵舎に集結を命ぜられた。もうすっかり諦めてたこともあった懐かしの故国へ帰れるというので、誰もかれも浮き浮きしていた。一つ心配なのは、各人の持ち物を検査する段になって、掠奪品と認められるものは取り上げられるばかりか、その所属部隊の乗船も止められるといわれたことだった。自分もしても、一つでも多く内地へ持ち帰りたいし、見つかったら大変だしと迷ったあげく、それまで大切に持っていたスケッチブック二冊、写真数枚、革ランドセル兼背嚢なども涙を飲んで焼いてしまった。しかし、衛生材料なら持ち帰れるというわけで、部隊で手持ちの包帯、ガーゼ、外用などを各人に分配した。ところが、他の部隊(野戦病院など)で、余った衛生材料を敵に渡すのは癪だからと、大量にあるものを焼き払ったことが敵さんに分かり、衛生材料といえども軍用品はひと品も持ち帰りまかりならんとされて、全部またとりかえされてしまった。

いよいよ乗船のときが迫り、船は元航空の艦の葛城丸に決まったとの発表を聞いて、みんなトキの声を上げて喜んだ。これで本当に故国へ帰るれる、そして可愛いい妻子に会えるというだけで心がわくわくした。内地の状況はどうなっているのか、住宅は、食糧は、仕事は、何もかも想像もできないほど困っているかもしれないのだが、しかし、そんなことはどうでもいいような気がした。とにかく故国へ帰るのだという一事だけが我々を有頂天にさせた。乗船地は、サンジャックという、ただ船が入れるだけの入り江で、桟橋も、倉庫もないような、港とは名ばかりのものだった。しかし、かっては日本軍の補給基地だったので、輸送船が数隻、赤錆た船腹を見せて沈没していた。憧れの帰国船葛城は、遥か沖合に雄姿を横たえていた。ハシケに乗る前に、海岸の砂原で各人の持ち物全部を天幕に並べて、英軍将校の検査を受けたが、それは実に形式的で、一寸見ただけで全部オーケーだった。こんなことなら、あれもこれも棄てるんじゃなかったと悔やまれたが、後の祭だった。それでも、毛布一枚、天幕一枚、夏衣袴ひと組、現地の刻み煙草、米など決構大きな「リック」に一杯あった。

やがてはハシケに乗り込む番がきた。乗った!さらば!仏印の地よ。悠久の歴史を秘めて流れるメコンの流れ、虎がいるというカンボジァの平原。小パリといわれる美しいサイゴンの町。すべて再び訪れることはあるまい永久の別れだ。想えば故国、宇品港出港以来幾度か繰り返した船出だが、おそらくこれが最後だろうという感傷も手伝って、何かしら、寂しい気持ちだった。

終戦(五)

船は佐渡で船大工をしていた寺尾上等兵が作り、網もすべて手製のものだったが、それでも地曳き網、投網、はえ網、底釣りなど数種の漁法を用いて、名も知らない大小の魚をかなり捕まえることが出来た。そこは海岸といっても、深く、河のように陸地にくい込んだ入り江、上げ潮のときは陸に向かい、引き潮のときは海へ向かってものすごい奔流となって河が上下するのだ。満潮時と干潮時では、垂直距離にして一丈のあまりも差があり、辺りの景色が一変するのだが、その干潮時のわずかの時間を狙って、地曳き網や投網をかけるのだし、底釣りもその時が比較的いいようだった。狭い入り江に地曳き網を仕掛けて、段々しぼっていき、最後のドタン場で網を突き破るほど暴れ回る大魚をひっ捕まえる爽快感は、何とも言えないが、鯛の一匹もかからないときもあって、そんなときは全くがっかりした。

しかし,これですべての生計を立てているわけではないので、いたってのんびりした魚師生活だった。ところが、段々勢力を得てきた反英仏ラロ国(我々は越盟団といった)の一部が、この辺りの、網の目のような水路の中に潜伏しているというので、仏軍の戦闘機が頭上を飛び回るようになった。底釣りをしている時、近くに繋いであった苫船が銃撃されたことがあったが、てっきり自分らをテロ団の一味と間違えてやってきたものと勘違いして、全員海へ飛び込んで、ずぶ濡れになってやっと逃げ帰ったなど、笑えぬナンセンスもあった。こんな危険があったが、ときにはうまく魚の大群を地曳き網にいれ、網が白く見えるほどにかかったり、底釣りで、糸を下げればかかり、下げればかかり、まったく息つく暇もなくて、舟一杯釣り揚げたこともあった。

昭和二十一年の正月は、戦争に負けたとはいえ、こうしたのんびりした中で迎えた。餅も、現地調達した米を足踏みの杵でつき、航空燃料に使っていたアルコールを加えて酒の代わりにしたものも結構飲めた。ただ一抹の不安は、いつになったら帰国できるかということだけだった。
軍隊としての任務は終わったが、長い間の訓練で、部隊としての秩序だけは整然と保たれていた。遅ればせながら終戦兵長ということにもなった。そのうちどこからともなく帰国も近いという噂が伝わりだし、兵隊たちは、それぞれにズックの布地などでリックサックを作り始め、身の周りの整理をぼつぼつやりだした。

終戦(四)

そのうち、内地帰還の話も出始めめたが、船の殆どを沈められたので、残った船舶を総動員しても、海外に生き残った日本人全員を送還するには、短くても七年はかかるだろうとか、内地に帰すと言って船に乗せ、東支那海へ捨てるのだろうなどと様々なデマが乱れ飛んだが、どれも実感が伴わず、自分たちの身に差し迫った危機でないだけに、みんなのんびりしていられた。

武装解除は段々進み、まず兵器弾薬を一定の場所に集積することを命ぜられた。その使役に行ったが、どこにこれだけの弾薬や被服衣類があったのだろうと思うほどのおびただしいものだった。だから世界の情勢のよく分からない現地人など、なぜ日本はこれだけの物がありながらアメリカに降伏したのか、今からでも俺たちと手を組んでもう一度戦争をやろう、と言う青年が多数現れたのも無理のない話だった。そして最後に、兵隊たちのゴボー剣まで全部集めて、敵さんの将校に渡し、英国国旗に忠誠を誓わされた。これで本当に丸腰になり、軍隊ではなくなってしまったので、気分的にはとても楽になった。

そして、内地帰還までは、自給体制をとらなくてはならないと、農耕班と漁労班とに分かれて、本格的な長期篭城計画を立てた。ところがどういう風の吹きまわしか、船の漕ぎ方も知らない俺に、漁労班の役割がついた。おそらく、使いにくい奴ばかりをより抜いて、海へ追い払ったのではないかと思われる顔ぶれで魚師班が作られた。海に面した海岸の、名もない部落のお寺のような家を借りて、横尾軍曹を長として七、八人が本格的に魚取りを始めた。

終戦(三)

もう戦争は終わってしまったので、何年こんな生活が続くかしれないというので、自給自足を図るため、畑を耕すことになった。将校まで一緒になって、菜っぱやきゅうりを作った。この近くには、朝市のたつところがあって、果物や穀物、雑貨などが土地の人によって商いされていた。その市で、アヒルの子を買って来て飼育してみたが、夜の冷え込みがひどいのかみんな死んでしまった。そこで、親付きの雌を飼おうということになり、有沢君と共同で、めん鳥一羽、雛十羽を買ってきた。これはすくすくと上手く育ったが、突然下痢をし始め、次々またみんな死んでしまった。そのはず、この辺りには、にわとりコレラという病気があって、部隊本部でも大量に飼っていたが、次々とやられてしまったということだった。

そのうちに、サイゴンに英国の軍隊が上陸したが、現地人の中には、日本の敗戦を喜ばず、日本軍と手を握り会って、反英仏革命を起こし、独立しようという一派があって、上陸軍に抵抗したやめ、双方に負傷者を出すという事件があった。これを日本軍の責任として、連合国側はわが司令官に、現地人の鎮撫を命じた。そのかわり、日本軍は降伏したが、当分は武装を認められ、サイゴン市街には再び日本軍の歩硝が着剣で立つようになり、進駐した英軍は、宿舎の周りに鉄条網を巡らして、一歩も外に出ないという緊張ぶりだった。すると今度は、革命軍側で、連合軍側に対して一切物資を納入しないという強硬手段をとり、これを破った現地人商人が、次々とリンチにあい、この世を去るという極めて険悪な情勢となった。

毎朝、その真ん中の一番人の通るところに莚を敷いた上に、生首がデンと据えてあった。その横に現地語で何やら書いてあるので、いくらか日本語の出きる青年に聞いてみると、村民の申し合わせを裏切って、英印軍に野菜を納入したから、見せしめのためにさらし首にするのだという実に残虐な話で、まるで無警察のような有様だ。そして、反英血盟団とも言うべきテロ団が出来て、しきりに日本軍に武器の引渡しを要求し、兵隊に対しては、逃亡して味方に入れば、現地娘を一人充てがい、将校待遇にするからと誘惑してくる。中には本気で逃亡するものもいた。この部隊から二人ほど逃亡したし、他部隊では衛生司令以下十名ほどが、武器弾薬をトラックに積み込んで集団脱走をしたものもあるという始末だ。しかし、軍としてはこれを追及する様子もない。憲兵隊が一番先に進駐軍に拘留されているのだから、それも出来ないはずだが、それにしては、日本軍には殆ど混乱はなく、秩序が保たれているのが不思議なほどだった。