やがて列車はひっそりと静まりかえった浦佐駅へ滑り込んだ。ふとみるとその改札口の柵に持たれて列車の窓を見ている母子の姿があった。それこそ、再び会うこともないと一度は諦めた最愛の妻と、まだ見ぬ娘の二人だった。あまりの嬉しさに、飛び出すように降りてしまってから、水筒を車窓に忘れたことに気付き、慌てて引き返してやっと発車間際に中の人に取ってもらう始末だった。
駅頭で五年ぶりで再会した妻にたいしても、何から話をしていいか分からず、ただ一言、
「何だ迎えに来ていたのか」
と言っただけだった。しかし、この短い言葉の中に、五年間の苦労に対するいたわりと再会
の喜びが腹一杯にあった。その妻の腰にすがりついていた節子の、丸い、あどけない顔には、父に対する感情など全然なく、まずよその男の人という感じだった。駅前の裏寂しい風景もちっとも変わっていない。こうして連れ立って歩いていると、まるで五年間の戦争などなかったような、昨日からの続きのように夫婦で子供を連れて暮らしているような錯覚を起こす。

新町の家では、すっかり家を片付けて待っていてくれた。ここでも五年ぶりの再会という気分はなく、兄夫婦もたいして年をとっているとは思えなかった。しかし、姪たちがみんな大きくなっていたのには、やはり長い空白があったことを感じさせられた。駅前の銀飯と味噌汁の味はまた格別で、生きて帰った喜びが更に実感となって心身に滲み込む思いだった。そこへ実家から兄が髭面でむかえに来てくれ、リックを背負ってもらって、今度は四人で家へ向かった。途中の風景も少しも変わっていなかったが、五年前の秋、この道をトボトボと後ろ髪引かれる思いで駅へ向かったときのことが、ついこの間のことのようにまざまざと思いだされ、一寸嫌な気持ちにもなった。家では近しい親類だけを呼んで、下向振る舞いをやってくれたが、席上あっちにもこっちにも戦死者が多数あり、また未帰還の者が相当ある話が続き、心を暗くした。村では、善六阪の充男一郎、中道の常作、伝兵衛籐の伝三、小沢新宅の総欽、冶右門の忠太、鍛冶の春一など、俺たちより幾らか若い組に大勢の戦死者があった。それに引き換えて、年上の層に当たるものは、応召者も少なく、戦死者は一人もなかったことは喜ばしいことだった。
小沢の大将、九兵門新宅などはれっきとした現役出でありながら、召集にならなかったというのは不思議なくらいだった。家での小宴会を終わって、十時過ぎに妻が借りていた本田の「ふるどん新宅」の前の一軒屋に落ち着いて、ホッとしたところ、妻は始めてこの胸に崩れ込んで五年ぶりの再会を泣いて喜んだ。思えば、明日いよいよたつという夜は、一分を惜しむように固く抱き合って寝たが、連日のドサクサで疲れきっていたので、ついうとうとと三時間くらい眠ってしまった。それが本当に悔しいほど、切ない一夜だった。もうどんなことがあっても決して離れまい、離すまいという気持ちが、お互いの胸を去来した。
もう戦争はこりごりだ。平和こそが人間の幸福を保つ絶対の条件である。