まず受付へ顔を出すと、一番先に高谷君がいて「やあ。」というわけで、初めてわが古巣へ戻ってきた感じがした。署長も警部も口端が張った人だったが、警務主任の山下さんが戦前に部長で一緒だったので、早速署長(三瓶)さんに引き合わせてくれて、型通り復員の挨拶をした。堂々たる体躯の三瓶署長だったが、いろいろとやさしく、出征中の労をねぎらってくれ、その後、警務の高橋宗男部長さんから休暇のこと、被服や給料のことなど細かい説明を聞いた。それですっかり落ち着いた気持ちになった。特別慰労休暇は三十日で、出勤の時配置も決まり、被服も全部支給されるということだった。これで職についての問題は無くなったが、次が住宅の心配だ。しかし、一ケ月の休暇中に何とか見つけけられるだろうと思い、すっかり安心すると急に郷里が恋しくなり、一時間も早く飛んで帰りたいが、もう夜行でなければ汽車がないので、仕方なく夕方まで署内で休んで、出征前からの古顔と久しぶりの挨拶を交わしたり、その後の模様をいろいろ聞いた。随分大勢の出征者だったが、大部分はもう復員して、戦死者は案外少なかったことも分かった。それでも、長谷、峯村、海保など、五、六人は帰らざる勇士となってしまったと聞き、暗然とした。
夕方 上野駅へ行って見ると、数少ない列車を待つ人々は、延々長蛇の列を作って、公園内にまでのびていて、どの顔もすっかり疲れきって、茫然とした態たらくで、立っているものは殆どなく、みんな地面に腰を据えていた。その間を、汚い身なりの浮浪児がウロウロと歩き回り、人々が何か食べてもいようものなら、その前に集まってこれをねだり、断ると唾を吐きかけて逃げるという悪どさだった。列車の混み様は、また一通りでなく、ホームへ滑り込んで、まだ止まらない車の窓からどんどん這入りこみ、それこそ殺気だった大騒動だった。それでもどうやら俺も乗り込んでやれやれと思ったら、少しうとうととしたようだった。深夜の汽車の列として、停車時間が長く、気がはやるのと逆行するように、なかなか進まなかった。それでも夜明けに新潟県内に入り、五年ぶりで見る故郷の山々は、新緑に包まれ、山村には戦争の跡もなく、平和そのものの姿だった。並みいる田園は今代かきのまっ盛りだが、まだ男が少ないらしく、殆どが女のようだ。中には夫を戦場で失った若い未亡人も多いことだろうと思うと、こうして無事妻子の元へ帰っていく自分の幸福をしみじみと感謝すると共に、異郷の山野に白骨となって散らばっている戦友たちに対して、申し訳ないような気持ちで一杯だった。
一気に読みました。小学生のころから戦記に興味を覚え、いろいろ読んでいました。特にビルマ国境で米式装備の重慶軍と対峙して全滅した部隊のラモウ辺りについては涙なしには読めなかったのですが、その前後にいらっしゃった祖父様の手記は情景が目に浮かぶようでした。
貴重なものと思いますので、是非何かの手段で活字化されることを祈念いたします。
最近ラジオでも戦記の朗読がありましたが、本出版されている以外の手記も合わせて集大成されると面白い(愉快という意味ではありません)と思いました。
おじい様の生きた証として大切になさってください。戦争は二度としてはいけない反面人間の性でしょうか興味があるものですね。
又お便りいたします。
以上