この日、前線に進出していた舞台本部から、石井兵長が連絡に来た。そのときの話では、師団の平松参謀が前線視察の途中、友軍の砲弾の照準を謝ったため、彼のすぐ近くで炸裂した結果、戦死したということだった。しかし、わが軍は、龍陵を見下ろす敵の陣地をひと山、ふた山、み山と占領し、篭城軍を救出することに成功したらしいという話もした。
それからまた大急ぎで装具を整えて、昨夜下ってきた通りをまた前線に向かって進んだ。進むにつれて、道路の脇や山腹の壕に、敵味方の死体がゴロゴロしていた。中にはまだ十五、六才くらいかと思われる敵の少年兵の死体が衣類を剥ぎ取られ、顔は雨に打たれていた。またわけのわからないうわごとを口走っている味方の、負傷した痛ましい姿など、とても正視できない情景もあった。前夜、我々が休憩していた切り通しのすぐ近くで、惨憺たる戦闘が行われていたのだ。
本体は、龍陵盆地を見下ろす小高い山の上に位置していた。近くに曲射砲の陣地があって、そこの将校がいうには、砲はあっても小銃が一丁も無いから、もし敵襲を受けたらどうにも処置なしだから、そのときはよろしく頼むということだった。しかし、我々とて騎銃がわずかばかりで、他人の応援どころではない筈だった。すぐにその山を降りて、龍陵盆地に進出して仮縫帯所と給水基地を設営した。そこは戸数十戸あまりの部落で、一戸だけ土塀を巡らしたやや上等の家があった。そこに縫包所をおき、我々市輜重隊は、その部落の先端とも言うべき農家を宿舎として、占領した「山」で頑張っている戦闘部隊に、力水と称してウイスキーと砂糖の入った水を補給してやることになった。この辺りは田があって、稲はもうかなり実っていたはずだったが、無残にも馬糧に刈り取られてしまい、家には何者も残さず荒らされていた。先に通過した友軍部隊か、それとも敵部隊が撤退するときの仕業か、どっちにしろ戦場となった部落は、実に哀れな姿をさらしていた。
またここは、友軍砲兵陣地の前面に出ているので、十五サンチ流弾がシュルシュルという緩やかな唸りを立てて龍陵の向こう側の敵陣に飛んでいった。しかし、残念ながら弾薬の補給が少ないため、一門につき何発と配給されるためを大切に撃っているのだというだけに、すぐ砲撃をやめてしまうのだ。これに引き換えて敵さんの方は、朝から晩まで明るい間は絶え間なく我方の陣地を撃ってくる。したがって、我隊の一切の行動は夜間に限られ、昼間は一歩も外へ出られない状況だった。
ある日の夕方、砲撃もやんだと安心して、部隊本部で夕食の支度に取り掛かったら、一発直撃を喰らい、倉田兵長、安部伍長即死、小柳、柳沢に上等兵負傷という大損害を受けてしまった。それで恐れをなして、そこから少し離れた崖の陰に穴を掘って入っていたが、またまたそこにも一発直撃が来て、経見上等兵が即死するという被害を受けた。それでも我方はじわじわと前進して、我々のすぐ前に野砲が四門ほど進出し、師団の戦闘指令所がさらに前面の部落に前進した。仮縫帯所には毎夜何人かの負傷兵が担架で収容され来たが、応急手当を加えた上で後方へ自動車で下げられていった。中には収容されて気が緩むのか、痛い、痛いと手放しで泣き喚く兵隊もいた。
私の祖父は昭和19年9月に中国 雲南省 龍陵県 二山で戦士しました。
壮絶な戦場の様子は心に突き刺さる思いでしたが、少しでも状況を知りたいと思い「龍陵 二山」で検索したら、この戦記を見つけました。
ちょうど同じ時期に龍陵で戦われていたのかもしれません...
貴重なお話 ありがとうございました。