船は佐渡で船大工をしていた寺尾上等兵が作り、網もすべて手製のものだったが、それでも地曳き網、投網、はえ網、底釣りなど数種の漁法を用いて、名も知らない大小の魚をかなり捕まえることが出来た。そこは海岸といっても、深く、河のように陸地にくい込んだ入り江、上げ潮のときは陸に向かい、引き潮のときは海へ向かってものすごい奔流となって河が上下するのだ。満潮時と干潮時では、垂直距離にして一丈のあまりも差があり、辺りの景色が一変するのだが、その干潮時のわずかの時間を狙って、地曳き網や投網をかけるのだし、底釣りもその時が比較的いいようだった。狭い入り江に地曳き網を仕掛けて、段々しぼっていき、最後のドタン場で網を突き破るほど暴れ回る大魚をひっ捕まえる爽快感は、何とも言えないが、鯛の一匹もかからないときもあって、そんなときは全くがっかりした。
しかし,これですべての生計を立てているわけではないので、いたってのんびりした魚師生活だった。ところが、段々勢力を得てきた反英仏ラロ国(我々は越盟団といった)の一部が、この辺りの、網の目のような水路の中に潜伏しているというので、仏軍の戦闘機が頭上を飛び回るようになった。底釣りをしている時、近くに繋いであった苫船が銃撃されたことがあったが、てっきり自分らをテロ団の一味と間違えてやってきたものと勘違いして、全員海へ飛び込んで、ずぶ濡れになってやっと逃げ帰ったなど、笑えぬナンセンスもあった。こんな危険があったが、ときにはうまく魚の大群を地曳き網にいれ、網が白く見えるほどにかかったり、底釣りで、糸を下げればかかり、下げればかかり、まったく息つく暇もなくて、舟一杯釣り揚げたこともあった。
昭和二十一年の正月は、戦争に負けたとはいえ、こうしたのんびりした中で迎えた。餅も、現地調達した米を足踏みの杵でつき、航空燃料に使っていたアルコールを加えて酒の代わりにしたものも結構飲めた。ただ一抹の不安は、いつになったら帰国できるかということだけだった。
軍隊としての任務は終わったが、長い間の訓練で、部隊としての秩序だけは整然と保たれていた。遅ればせながら終戦兵長ということにもなった。そのうちどこからともなく帰国も近いという噂が伝わりだし、兵隊たちは、それぞれにズックの布地などでリックサックを作り始め、身の周りの整理をぼつぼつやりだした。