帰国葛城丸乗船(三)

国破れて山河ありというが、無数に散在する島々の姿は、敗戦の痛手などどこにも見られず、いたってのどかな風景だった。上陸地点大竹港には夕方投錨し、翌朝すなわち昭和二十一年五月十八日に、五年ぶりで故国の地をしっかりと踏みしめた。ここには海水潜水予校のあったところだということだが、爆撃の跡もなく、兵舎などもすっかり残っていて、そこで身ぐるみ消毒されて、とにかく無事で帰って来たというお祝いに、量は充分とはいえなかったが、赤飯をいただいたときは、やはり誰の顔にもホッとした色が隠しきれないようだった。乗船地で預けたお金や、郷里までの旅費や、携行食糧の乾パンなど貰ったり、復員証明書を受けたりで二日はかかり、二十一日に各方面ごとに列車に乗って、入隊以来辛苦を共にした多くの戦友とあっけない別れを告げて郷里へ向かった。

列車が進むに連れ、沿線の被害状況のあまりのひどさには、まったく涙も出ないほどの痛ましさだった。町という町は、殆ど焼けただれた鉄屑と土蔵だけを残すのみで、その間に焼けトタンで囲った乞食の巣のような家がポツポツ出来ている程度だ。特に広島市の惨状は徹底したもので、一木一草も残さないとはこのことかと思った。しかし、不思議なことに、鉄道施設は殆ど残ったのか、復旧したのか知らないが、元のままのようだ。

兵庫県に入って赤石、神戸から大阪、京都にいたる間は、まるで焼け野原の中を走っているようだった。京都で北陸線経由で新潟県内へ入るものと、東海道線をのぼって東京から福島、宮城へいくものとに分かれたが、俺は妻子のことより職場の方が余計心配だったので、まず八王子へ廻って、復職出来るもたのかどうかを確かめてから郷里へ戻ることにし、宮城、福島組と共に東海道線をとることにした。

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