入隊(一)

 十月中旬とはいえ、宮城野原の兵営は寒々としていて東京の冬より余りにも寂しい風景だ。型通りの身体検査があって各中隊の兵舎に引率されたが、そこには寝台は無く、床に藁を敷き、その上に荷造り用の筵(ムシロ)を敷いただけだった。食器は飯盒一つ、夜は毛布を上下に分けてその中に入るのだが、一人分では寒くて仕方が無いので二人分を合わせて一組とし、背中合わせで寝るのだ。

 班長以下全部召集兵で、その中に輜重隊(シチョウタイ)(※1)や陸軍から転属になった初年兵(※2)がいくらか混じっていた。押し並べて軍隊身分は低かったので和気藹々とした雰囲気だった。しかし、誰の顔にも家族と離れた寂しさと、前途に対する不安の色は隠せない。

 日夕点呼の時は班内に並び番号をかけるのだが、既に四十を越えた老兵もいて物々しい号令とは反対に滅入り込みそうでもあった。一日三度の食事は麦飯に一杯のお茶が飯盒の蓋に配られるが腹一杯にならない。三日に一度くらいは酒保品(※3)が下給されるが、それもさつま芋かメリケン粉をこねて蒸かしただけのお粗末なものだった。

 さていよいよ身包み着替えてこれを荷造りし、郷里へ送る段になると一層の寂しさを感じた。ラジオも無く新聞も雑誌も無い。唯一の楽しみは郷里からの手紙だけで、妻からは三日に一度くらい手紙が来たが、こちらからは外出した時や公用外出者にこっそり頼んで偽名の手紙を送った。しかし、こいつとていつ検閲に引っかかるか分からないので、軍機に関することや反戦的なことは一言も書かなかったのである。

 最初の編成は、第二師団防疫給水部といい、大田軍医中佐を隊長に副官が山内大尉、それに広瀬、森川、清水の三軍医中尉、櫃間(ヒツマ)、松浦二衛生中尉、若林薬剤少尉、清水、大栄二軍医見習士官などの将校に軍曹以下兵まで合わせて二百名そこそこの部隊だ。

 主たる任務は戦場での伝染病予防と給水である。そのため、軍の機密に属する一トン車の口水車四台が配属された。これで濾過した水を薬剤で消毒して一石入布製水槽(イッコクイリヌノセイスイソウ)(※4)に入れてトラックで前線部隊に給水するわけだ。最初は教育編成として、部隊本部、検水班、病理班、消毒班、給水班などに分けられ、俺は櫃間中尉の率いる給水班になり、一斗入ズック(※5)の水嚢を背負わされ幼稚な訓練を受けた。

 毎日殆ど時間潰しの各個教練や戦闘訓練が続いた。近くには海軍の練習飛行場があり、赤トンボのような練習機が飛び回り、それを見上げて郷里への思いを馳せてか、虚ろな目を見はっている兵隊の姿が物寂しさを誘っていた。

 十一月中旬だったと思うが、宮城県下で師団の総合演習があり、夜間通りがかりの民家で冷え切った飯盒の飯を食ったが、その時にこの家の主婦が出してくれた白菜の漬物の美味さは何物にも変え難いものだった。また、一人の老婆が息子を捜して部隊の演習地へ来たが、その子に会えず、背負ってきた籠一杯の蒸かし芋を居合わせた兵隊に振舞ってくれたのは印象深かった。

※1:戦争に必要な物資を輸送する部隊。
※2:最下級の兵士、二等兵。
※3:軽食や煙草などの嗜好品。
※4:石は体積の単位。主として米穀をはかるのに用い、1石は10斗。約180リットル。
※5:1斗は1升の10倍で18.039リットル。

入隊(一)」への2件のフィードバック

  1. 松浦文彦

    はじめまして大東亜戦争従軍記を興味深く読ませていただきました このブログに佐渡丸という船の名前が出ておられるのですがこの佐渡丸はフィリピン沖のほうでアメリカの潜水艦の魚雷をうけて沈没したらしいのです 実は私の伯父がこの船に乗り戦死しております 入隊(一)のところで松浦二衛生中尉とありますが これはひょっとして私の伯父ではないでしょうか?もしよろしければ メールをいただければと存じます 

    返信
  2. 谷川須佐雄

    読んでいるうちに、お祖父さんは父と同じ第二給水部に所属されていたようで、懐かしさを覚えました。第二給水部に配属されたことも宇品から出航したことも同じです。昭和18年に出航した衛生兵でした。

    返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>