大東亜戦争従軍記

祖父の従軍記

召集下令

昭和十六年十月十日、この日はちょうど宿直に当たっていたがそろそろ寝ようと思っていた。

入隊(一)

十二月が終わりに近くなると寒さに向かうというのに蚊取り線香やメンソレなど、真夏のものがどしどし支給される。おそらく仏印辺りだろうくらいのことは誰にも分かってきた。

入隊(二)

昭和十六年十二月八日、その日は宮城野原練兵場で各個教練をやっていたが、部隊本部から伝令が来て全員即刻帰隊するようにというので急いで隊形を整えて帰隊し、全員が舎内に集合した。

入隊(三)

十月中旬とはいえ、宮城野原の兵営は寒々としていて東京の冬より余りにも寂しい風景だ。型通りの身体検査があって各中隊の兵舎に引率されたが、そこには寝台は無く、床に藁を敷き、その上に荷造り用の筵(ムシロ)を敷いただけだった。食器は飯盒一つ、夜は毛布を上下に分けてその中に入るのだが、一人分では寒くて仕方が無いので二人分を合わせて一組とし、背中合わせで寝るのだ。

出動(一)

退屈極まる航海がまた五日ほど続いた後、船団は仏印のカムラン湾に入った。ここは日露戦争の時、バルチック艦隊が寄港して休養をとった所だという。その入り口は山と山に囲まれた実に狭い海峡だったが、中は物凄く広い。その中にぎっしりとありとあらゆる種類の艦船がひしめいていた。その偉容はなんとも形容し難いもので、無敵大海軍の名に背かないものだった。この大艦隊がまさか二ヶ年余の間に全滅してしまうとは誰が想像したことだろう。

出動(二)

基隆には三、四日の停泊で何も積み込まず、またもとの七隻の輸送船団と二隻の駆潜艇の護衛で、台湾海峡を南下することになった。基隆港を出た後、甲板から兵隊が一人海中に落ちたとかで、二回ほど同じところを旋回したが、暗夜のためわからぬまま通過してしまった。

出動(三)

三日目辺りになってから、陸地に近づいたらしく海鳥の姿が見え始め、やがて薄い板を並べたような帆を張った支那ジャンク(※1)や、櫓を向こうに押してこぐ漁船などがちらほら見えてきた。この頃はもうすっかり船内は夏のような暑さで、兵隊たちはみんな甲板へ出て涼をとらなければならなくなった。僅か四日くらいの船旅でこうも温度が違うところまで来たことがまるで夢のようだった。 雨の振り出した日に、台湾の北端の山々が見え始め、程なく基隆港外に到着した。防波堤には外海の波濤がぶつかり、ものすごい飛沫を上げている。ここで駆逐艦の一隻は、右方へ舵をとって甲高い汽笛の音を残して船団と別れていった。おそらく高雄辺りへ直行したか、内地へ帰ったのだろう。そして残った駆逐艦の一隻が先導して、船団は一隻づつ狭い港口を通って港内へ入っていった。そこには陸軍旗をマストの頂上に掲げた貨物船や客船が無数に停泊していた。俺たちの隆南丸もその中に投錨したが、岸壁まではかなり遠いらしい。

出動(四)

これが故国の見納めになるかもしれないと思えば、何かこみ上げてくるものがあるはずだが、乗船したらすぐに船室の割り当てを受け、船上生活に必要な食器などを受領したり、見廻り品の整頓やらで、一人で感傷にふけっている余裕も無かった。 すぐにまた一番船尾の一区画へ移された。そこはスクリューの真上に当たっていて、酷く振動の激しい場所だった。その一番奥へ装具を押し込み、毛布を四つ折に敷いて、全員芋を並べたように寝る。何しろ着ているものは全部夏物で、毛布も一人一枚当りしかない。夜になったらその寒いこと。もちろん火の気は無く、あるだけの毛布を集め、それでも足りなくて敷いてある薄べりまでかけて鼠の子供のように並んで潜り込んだが、とうとう寝ることは出来なかった。

ジャワ島上陸(一)

本体が出発した後は、ガランとした校舎の真中の建物に、いいものを全部集めて、一兵卒にいたるまで、スプリング付きの寝台に、個人用の蚊帳を張り、純毛、純白の毛布をかけて寝た。その上、誰からともなくパジャマを着て寝ることになり、まるでホテル住まいのような生活が始まった。仕事といっても、駐屯各部隊からの検便を主としたもので、我々輜重兵も、衛生兵並みのシャーレー洗いや、ヤニテン流しをやった。それも一日ほんの一、二時間の仕事で、あとは本を読んだり、キャッチボールをやったり呑気至極だった。

ジャワ島上陸(二)

一ヶ月も経たない内に、バンドンの本隊からすぐに復帰するように命令が来て、大急ぎで装備をまとめ、ジョクジャカルタを後にした。そして進駐の時とは違う道路を通り、途中すごい峠などもあって、丸一日がかりでバンドンに到着したときは、トラック上の兵隊は、汗と埃にまみれ、まるで煤掃きの男のように目ばかり光っていた。

ジャワ島上陸(三)

一旦バンドン周辺に集結した各兵団はここでそれぞれの警備地区へ分散されることになった。我々櫃間中尉の小隊は更に分けられて、大原見習士官を長とした十五人ばかりの下士官兵が、昔王城があったという「ジョクジャカルタ」に向かった。そこはジャワ島中部の要衝で、若松の歩兵第二十九連隊の遠藤大隊を主力とする部隊が進攻していた。

ジャワ島上陸(四)

こんな悠長な日を送っている後方部隊とは別に、前線では、敵を追ってバンドンへ、バンドンへと破竹の進撃を続けていた。名前は知らないが、かなり大きな河に架けられた橋が爆破されて通行できず、工兵隊の架橋の仕上がるのを待って、大部隊が川岸に集結した。この時、前方の敵砲兵陣地から、この架橋妨害の砲弾を打ち込んできて、若干の戦死者を出した。この時我々も橋に近い椰子林に待機していたが、ヒュル、ヒュルという不気味な砲弾のうなりに次いで、耳を圧するような爆発音を初めて聞き、みんな顔色を無くして、ただうろうろと立ち騒ぐだけだった。

ジャワ島上陸(五)

こうして極めて平穏な進撃を続け、三日後にはジャワ島西部の要衝「ボイテンゾルグ」に入った。ここは本隊の上陸したバニタハ湾からの本通りも通じていて、既に我が軍の諸部隊が入っていて、右往左往していた。建物などはオランダ風の洋館もある。立派な街で、戦争の跡もなく、原住民も平常通りに生活している風であった。

ジャワ島上陸(六)

翌日も一路東へ向かって自動車進撃を続けたが、敵はどこへ行ってしまったのか、何の情報も無く、また戦闘状態も起こらなかった。「チャンジョウール」という街へ入ってみると、あっちこっちに砲弾による破壊の跡があり、火災を起こして焼け落ちた民家も何件かあって、まだくすぶっていた。

ジャワ島上陸(七)

車両や機材の陸揚げが終わり、部隊を整えて行動を起こしたのは夕方だった。敵は敗走してしまって姿を見せなかったが、どこで不意打ちを食らうか分からないので、一応銃に弾丸を込めて、全員車上の人となった。

ジャワ島上陸(八)

ジャワ島は赤道の南で、日本内地とは夏冬反対だが、時間はほぼ同じで、五時ごろにはほのぼのと明るくなる。そのころ、我々も小発に乗っていよいよ敵地に乗り込む段になった。船腹を縄梯子に伝わって降りる訓練は航海中にやっていたので、大体のコツは分かっているつもりだったが、さて重い装備を付けて実際にやってみると、ぶらんぶらんと揺れている梯子を降りるのには一汗かかされた。それでも落ちた者も無く、予定通りに小発に移乗して、一直線に陸地に向かって走り出した。兵隊たちは、膝の上まで塩水に浸かりながらものんきに話しをしながらゆっくりと上陸した。

ジャワ島上陸(九)

いよいよ明朝、蘭印政府の拠点ジャワ島へ上陸するという日、船団は二つに分かれて右と左に別行動をとり始めた。われわれの乗船隆南丸は右のコースに加わり、ジャワ島とスマトラ島との間にあるメラク湾に向かった。

ソロモン群島進駐(一)

昭和十七年も押し迫ってから、一部の進級が発表されて俺と日野君とが上等兵に進んだ。一緒に入隊した一つ星の仲間では、大抜擢の上等兵だからちょっと嬉しかった。戦地で迎える第一回目のお正月は、酒も甘いものもたっぷりあって、ガ島で日夜敵機の銃爆撃を受けて食物も弾丸もなく、土の穴にもぐってじっと歯を食いしばっているという同胞のことを思えば、まったくもったいないような生活だった。食料は、みんな内地からはるばる送ってくるが、缶詰と乾燥物ばかりだから、生野菜というものを上陸以来一つも口にしていない。これには閉口して、浜辺に生える名もない草や沼地に生える甘藷(※1)の苗に似た葉を食べたりした。

ソロモン群島進駐(二)

隣にいた衛生隊は全部引き払って乗船した。この時の船団は、佐渡丸以下快速を誇る新鋭輸送船十一隻に、多数の艦艇が護衛してガ島に上陸し、敵と対峙している友軍を助けて一気に島を奪還しようという雄大な作戦であったらしい。しかし、いよいよ明朝この船団がガ島海域に突入しようという日の昼頃、敵戦闘機隊の大挙来襲を受けて、殆ど全滅し、佐渡丸一隻だけが満身創痍の痛々しい姿でこの島へ戻ってきた。そして、それに収容されていた負傷兵をハバナ丸という貨物船に移して仮の病院とし、我が隊からも毎日何名かの衛生兵が手伝いに行った。

ソロモン群島進駐(三)

師団主力はガダルカナルに進撃するはずであるが、船の都合でもあるのか、一旦この辺りの海岸に仮の宿営をしているようだった。すぐ隣接して衛生兵が宿営していたが、その中に同じ日に応召になった郷土の久保準治君がいて、よく海岸で一緒になったときなど、郷里の話をして楽しんだ。またブリスベン丸では、郷土の高橋君という人も同じ日に応召になっていた。

ソロモン群島進駐(四)

昭和十七年十月初旬、我々はジャワ島の首都バタビアの近くの港、タンジョンブリョクで、輸送船ブリスベン丸(五千トン)に乗船した。タンジョンブリョク港には、上陸作戦のとき、敵艦ヒューストンの魚雷を受けて沈没した我が方の輸送船数隻が、赤い腹を見せて醜く横たわっていた。今度はわずか四、五隻の輸送船に、護衛の駆潜艇二隻といういたってこじんまりした船団だったが、速力はずっと早く、十四ノットくらいとのことだった。

ルソン島転進(一)

バンドンで面白い目をしてきたので、マニラ市内でもまた贅沢な生活が出来ると喜んだのもつかの間、装備を陸揚げし終わるとすぐに市内を通り抜け、ルソン島中部の小都市「カバナツアン」の周辺に駐屯し、内地からの補充を受けて師団は再編成されることになった。我が部隊は「ゴンザレス」という部落に、前に駐留した部隊の残した竹とニッパ椰子で兵舎を作り宿営することとなった。この付近には水田はなく、畑も少ないので、野菜が手に入りにくく、毎日甘藷の苗に似たものと南瓜ばかり食したのには閉口した。しかし、果物はマンゴー、バナナなど豊富で、現地人商人が酒堡と呼ばれる商店で安く売っていたので、たっぷり食べられた。酒類も豊富で安く、特にジンが旨かった。

ルソン島転進(二)

港内にいるとき、ニューギニア方面に行く大型輸送船とすれ違った。その船には兵隊が満載されていたが、あの敵機の跳梁する南海の島へ追いやられる同胞に対して、手を合わせたい気持ちで見送った。更に一週間ほど退屈で不安な航海が続いた。あるときは、敵船あらわるの警報に船内は大騒ぎとなり、救命胴衣を着けるやら、装具を整理するやら大変だったが、鯨の誤認と分かり、大笑いの一幕もあった。いよいよ明朝マニラ湾に入港という夜は、もっとも危険な海域とあって、全員非常体制で警戒に当たったが、幸いに何事もなく、夜明けと同時に船団は一斉にマニラ湾に入り、横隊形となって進んだ。

ルソン島転進(三)

昭和十八年四月初旬、師団生き残りの将兵は、たった一隻のボロ貨物船に詰め込まれて、たった一隻の駆潜艇に守られて、半年間住み慣れたブーゲンビル島を離れた。この頃は既に敵の制空権下にあり、海上は敵船の目が光っていたが、幸いにして一度も脅かされずに一昼夜の航海でラバウル港にたどり着いた。

マライからビルマへ(一)

ある日、清水大尉が公用で出張することになり、四、五日隊を空ける事になったので、印鑑を下山軍曹を預けたことがある。そのとき下山軍曹は大いに男気を発揮するつもりか、手紙の検印を俺がしてやるから、何でも書きたいものを書いて出せということになった。喜んだのは妻子と別れていた老兵どもで、検閲に引っかかるのが怖くて真心を書き送ることが出来ない、この時ばかりと、思い思いの手紙を妻子のところへ書いた。しかし、検閲は隊を出てからでも、何回やられるかわからないので、うっかり反戦、反軍的なことはかけないと俺は自重して、当たり障りの無い事しか書かなかった。ところが、仲間には妻恋しさから里心を出しすぎて、反戦的愚痴を書いたものがあったので、ラングーンの憲兵隊の検閲に引っかかり、下山軍曹や清水大尉は何等の処分も無かったらしい事は、どうも腑に落ちない点であった。

マライからビルマへ(二)

昭和十九年二月に入ってまもなく、原隊復帰の命令が出たので、本体の分遣隊に戻り、やがてビルマへ転進することになった。開通間もない泰緬鉄道の貨車に乗り込んだが、開通したといっても木橋を渡る危険な鉄道なので、一キロ走ると一休みといった具合で、ビルマの東橋にあるモールメンまで三日かかった。

マライからビルマへ(三)

このころ、ビルマを横断して泰、仏印にある我が基地を爆撃するB二十九が、よくこの街の上空を通過したが、その都度空襲警報で非難させられるので閉口したが、幸いに爆撃を受けたことはなかった。この辺りの泰国人は、日本人とよく似ていたが、男女ともに髪を角刈りにして殆ど素足で、黒っぽい着物で実に殺風景だった。しかし、女達の中には洒落たワンピースを着て、日本軍に春を売りに来る者もいた。

マライからビルマへ(四)

この辺りでも果物が何よりの慰め品だった。特に強烈な匂いとトロリとした甘い味で有名なドリアンが美味かった。これは木からもぎ取ってそのままおいたものはホントの味ではなく、自然に落ちたものをすぐに拾って食べるのが一番良いとされていた。師団の倉庫警備に当たっているとき、その辺りにあるドリアンの大木からドタンと落ちてきたのを拾って食べたときの美味は、何とも言えず美味しかった。

マライからビルマへ(五)

この演習中に、将校との連絡にトラックで出かけたことがあった。帰路、二十九連隊の若い将校二人が便乗を申し込んできた。その便乗者が奢るとも言わないのに途中で酒場の前に車を止め、奢ってもらうつもりでウイスキーを注文したりして飲み始めた。すると先方も、この呑兵衛どもと付き合ったら、大変なことになると思ったのか、自分等の分だけ支払ってさっと出てしまった。さあそうなると誰も金を持っていないから、支払いが出来ないということになった。俺はそのくらいの金は持っていたが、相棒の諸橋、窪田、鎌田などあまりに柄の悪いやり口に嫌気がさして出す気にならず、持っていないと言い張った。このことが憲兵隊へでも通報されるとまずいということになって、そこから遠くないところに宿営していた森川中尉のところへ行って泣きついて金を出してもらい、やっと支払った。ところがこれが将校に対する礼を失したものとして後で問題になり、どうやら処罰だけは免れたが、以後三回くらい外出をとめられてしまった。

マライからビルマへ(六)

昭和十八年十月、四たび輸送船に乗ることになり、マニラ湾に集結した。今度もリマ丸というボロ貨物船で、六千トン級だった。もうこうなると内地帰還の夢を追うより。この次はどんな土地へ行くのか、それを楽しみにするほかなかった。航海はやはり退屈なものだったが、今度は一番短く、一週間ほどでシンガポール港に入港した。ここは、東洋一といわれる美しい港だけあって、山に囲まれた深い入江が幾つもあり、どこにも大きな輸送船が横付けになっていた。支那人苦力(クーリー)(※1)が薄黄色の支那服に、菅笠(スゲガサ)をかぶって荷役をしている姿が目に映った。どこの港でも見慣れた潮焼けした逞しい男のほかに、女苦力の多いのにも驚いた。

雲南作戦(一)

その日の夕方には代わりの機関車が迎えに来て、うまくそこを切り抜けることはできたが、その先では、鉄橋が落とされていて渡れないので、川向こうまで行軍ということになった。やっと走り出したと思ったら、今度はシッタン川の鉄橋が爆撃でやられて渡れない。それで仕方なく列車から着物や馬を下ろして行軍となった。やはり、昼はジャングル内の部落に隠れて夜だけ歩くのだが、雨の心配は無く、この辺りには、地上の敵は全然いないことが分かったので、みんな馬の手綱を伸ばして、鼻歌混じりで、至極のんびりした旅をした。

雲南作戦(二)

その後、残された本体も、長くはそこにとどまらず、程なく仏印方面軍に編入されて、その地域の守備に当たるという幸運な布令が来た。今度は旅程が長いので、全員が汽車輸送と決まった。すでに車両は残り少なになっているので、部隊の方で手を回し、輸送参謀に何か贈り物をしたとかで、案外楽に乗れるだけの貨車の割り当てを受けることができた。しかし、我々騎馬隊は、馬と一緒に貨車に載せられて、馬首の下で食事をし、わらとまみれて寝るのだ。荷物扱いでなく、馬並みのお客ということになった。

雲南作戦(三)

昭和二十人の元旦は、この宿舎で迎えた。もう三ヶ月以上も一滴の雨も降らず、地上のあらゆる生物が生気を失ったように埃にまみれているし、戦局はいよいよ我方に不利らしく、たまに軍司令部から配布される官報、昭南辺りで発行される邦字紙にも、南太平洋ではラバウルの近くまで敵軍が侵入し、印緬国境のインパール作戦は失敗して、我軍は後退を余儀なくされているらしいということだった。だというのに、ここの正月は極めてのんびりしたものだった。まず、元旦の早朝に演習の出動の命令があり、初めのうちは本物と思わせるような緊迫感があったが、やがて演習と分かり、終わってからお正月三日間は「朝酒、昼酒、晩酒よし。」という部隊長の許しが出て、それこそ部隊を上げて乱恥気騒ぎをやり、威勢の良い連中は樽御輿を作って担ぎ出し、裸身でワッショ、ワッショとお祭り騒ぎをやったりした。酒は軍から配給されるほかに、現地人から軍票で結構手に入った。酒が足りるとその後は女というのが決まった男の欲望だが、ここではどうにもその方は工面がつかないようだった。自動車をとばして、トングーの街に行くという手もあったが、もう自動車行軍も危険で、うっかり出て行けない状態だった。敵機の目が絶えず光っていて、この宿舎にも時折敵哨戒機の姿が見えたが、幸いにも爆撃も銃撃も無かった。

雲南作戦(四)

この谷もかれこれ一週間くらいはいたろうか、もう月日もよく覚えていないが、いよいよ後方へ転出する命令が出て、移動と決まった。幸か不幸か下痢と咳で休んだ後が十分に回復していなかったので、自動車に乗って本隊に先行することになった。そして、この前は、敵弾に脅かされながら、暗夜馬を引いて上った道を、今度は自動車に揺られて降りていったが、まだ龍陵を放棄したわけではないらしく、小銃や機関銃を担いで、一歩、一歩絶望的な表情で登ってくる他の部隊の若い兵士の姿は、まったく悲惨な前途が予想されているだけに、悲しかった。

雲南作戦(五)

そうこうするうちに、いよいよ龍陵を放棄するということになったらしく、我部隊も、山ひとつ隔てた谷へ下がることになり、馬を引いて間道を下りてまた、そこで横穴生活を始めた。幸せなことに、食料だけは不自由しなかった。ひとまず安全地帯らしいところへ下ったという気の緩みからか、下痢を起こして寝込んでしまった。その代わり、龍陵からの荷役には行かずに済んだ。

雲南作戦(六)

終日頭上を砲弾が飛び交い、「空を飛ぶのは敵機と決まっている。」と決めているとき、どうした風の吹き回しか、友軍の戦闘機が五機ほど飛んできて、龍陵の向こうにいる敵の陣地を銃撃したことがあった。このときばかりは翼の日の丸が目に滲むほど鮮やかに見え、みんなが狂気のように手を振れば、飛行機も友軍部隊を見て、翼を数回降って、南の空へ消えていった。敵の制空権下の戦場にやってきた残り少なの友軍機に対して、無事に基地まで帰ってくれと密かに祈った。これに勢いを得たのもつかの間のことだった。その後は味方機は一機も見えず、後方からの補給も細々、せっかく我々の前面に進出した野砲四門も、一発も撃たずに退却してしまう始末。また師団戦闘指令所もその日に敵の探知するところとなって、B二十五の大編隊で集中爆撃を受け、これまた退却の余儀なきに至った。そして、その後も敵戦闘機は、頭上を我もの顔に乱舞し小出町出身の野上兵長が、火を吹く自動車からキャブレターを外して、他の故障車に取り付けて脱出し、部隊長に褒められたこともあった。

雲南作戦(七)

輜重部隊の給水活動は、近くの小川から汲んだあまり清潔ともいえない水に、砂糖とウイスキーを少量入れて、一斗入りの水嚢に注水し、これを背負って兵隊が、五、六人一組で、下士官か兵長を長とし、夜間味方陣地に忍び寄り、壕内の兵隊の水筒に水を入れてやるわけだ。俺は三回ほど出た。あるときは横尾兵長を長として、三つ目の山の頂上陣地まで行った。山と山を繋ぐ堀を通って真っ暗な山へ入っていくわけだが、至る所に死体があって、それに躓いたり、踏みつけたり、死臭はといえば鼻をつき、なんともいえない鬼気迫るものだった。やっと山頂に達し、一人ひとりの水筒に満たして回った。だが、そこにも負傷して怯えている兵隊があっちこっちにいたし、何とも手の下しようが無いと呆然として語る軍医の顔も見られた。事実一人づつやっと這い上がってきたこの陣地から、負傷で動けないものをおろすことは、不可能に近いことなのだ。その帰りに、迫撃砲の至近弾を食らって、爆風を顔に受け、ひっくり返る目にあったが、幸いに傷を負った者も無く、逃げ帰った。

雲南作戦(八)

この日、前線に進出していた舞台本部から、石井兵長が連絡に来た。そのときの話では、師団の平松参謀が前線視察の途中、友軍の砲弾の照準を謝ったため、彼のすぐ近くで炸裂した結果、戦死したということだった。しかし、わが軍は、龍陵を見下ろす敵の陣地をひと山、ふた山、み山と占領し、篭城軍を救出することに成功したらしいという話もした。

雲南作戦(九)

こんなことがあって、まったく無我夢中で退却し、どうやら山一つ隔てた安全地帯へ来た頃、夜はほのぼのと明けてきた。明るくなってみると、この公路は山々の間を縫うように蛇行しながら、延々と続き、遥か目の下まで白く見えていた。この道路を両面から狙い撃ちする位置に敵の陣地が無数にあるわけだ。これを歩兵部隊が一つ一つ潰して進んでいるわけだが、最も近い堅塁、小松山陣地はまだ戦闘中で、すぐ目の下によく見えた。

雲南作戦(十)

道路の両側の高所に歩哨を立てて人も馬も声を潜めて休んでいたのだが、雨はますます土砂降りとなり、道路は川になってしまった。その流れを堰き止めて寝転んでいる兵隊もあった。温度はぐんぐん下がり、びしょ濡れの体ではぞくぞくしてとても眠るどころではないはずだが、まったく疲れ切っているのだろう、ぐうぐう鼾(イビキ)をかいているものもいる。このまま眠り続けたら、おそらく凍死をするのではないかと思われる寒さだ。中には寝ている牛の背中にへばり付いて暖を取っているものもあった。そんな状況下に歩哨に立たされたが、すぐ近くで戦闘が行われるらしく、機銃の音がカタカタ、ドンドンと続き、時々は曳光弾が鋭い尾を引いて、頭上をかすめて飛んでいく。どこから敵が襲撃してくるか分からない逼迫した空気にもかかわらず、全身を襲う睡魔と闘うのに精一杯で、敵に対する警戒どころではなかった。目を大きく見開き、歯を喰いしばっていても、いつの間にかウトウトと気が遠くなり、抱いた銃の重みでクラっと前に体が傾いて、はっと我に返るという案配で、敵襲の恐ろしさも、全身びしょ濡れの悪寒も感じなかったほどの眠気だった。

仏領印度支那駐屯(一)

昭和二十年五月、行動を起こし、全部の病馬をダルマ船に積み込んで、ポンポン船に曳かせて、メコンの大河を逆行するという、極めて大陸的な旅行だった。

仏領印度支那駐屯(二)

日曜日には、トラックでプノンペンの町まで遊びに連れていってもらうのだが、そこはカンボチヤ国王のいる首都だけに、なかなか立派な町で、軍の慰安所もあるし、近くに軍の飛行場もあって、ビルマ戦線ではもう見られなくなった日の丸の鮮やかな双発機が、威勢よく飛び交っていた。

仏領印度支那駐屯(三)

このころになると、南太平洋では、制海空権を敵に取られ、フィリピン群島のレイテ島に米軍が上陸し、マリアナ群島の基地から、B二十九の大編隊が直接、東京その他、内地の主要都市を空襲していることが敵方の宣伝でほぼ明らかになった。そして、

仏領印度支那駐屯(四)

間もなくまた、移動の命令が出て、師団はカンボジア国の首都プノンペンの郊外に移ることになり、再びバンコク駅から列車に乗って北上し、メコン川を渡し舟で越えて、ウドンという街に着いた。カンボジアは、タイ国よりさらに民度の低い国で、住民の殆どが坊主頭で、素足に黒っぽいシャツに股引きといった服装だ。主食は米が豊富に取れるので、不自由はなさそうだが、電灯も無く、例外なく竹とニッパ椰子でできた掘っ立て小屋に住んでいた。しかし、お寺だけは立派で、どんな小さな部落でも必ずといっていいほどあって、柿色の衣を纏った、あまり上品とは思えない坊さんがうようよしていた。

終戦(一)

船は佐渡で船大工をしていた寺尾上等兵が作り、網もすべて手製のものだったが、それでも地曳き網、投網、はえ網、底釣りなど数種の漁法を用いて、名も知らない大小の魚をかなり捕まえることが出来た。そこは海岸といっても、深く、河のように陸地にくい込んだ入り江、上げ潮のときは陸に向かい、引き潮のときは海へ向かってものすごい奔流となって河が上下するのだ。満潮時と干潮時では、垂直距離にして一丈のあまりも差があり、辺りの景色が一変するのだが、その干潮時のわずかの時間を狙って、地曳き網や投網をかけるのだし、底釣りもその時が比較的いいようだった。狭い入り江に地曳き網を仕掛けて、段々しぼっていき、最後のドタン場で網を突き破るほど暴れ回る大魚をひっ捕まえる爽快感は、何とも言えないが、鯛の一匹もかからないときもあって、そんなときは全くがっかりした。

終戦(二)

そのうち、内地帰還の話も出始めめたが、船の殆どを沈められたので、残った船舶を総動員しても、海外に生き残った日本人全員を送還するには、短くても七年はかかるだろうとか、内地に帰すと言って船に乗せ、東支那海へ捨てるのだろうなどと様々なデマが乱れ飛んだが、どれも実感が伴わず、自分たちの身に差し迫った危機でないだけに、みんなのんびりしていられた。

終戦(三)

もう戦争は終わってしまったので、何年こんな生活が続くかしれないというので、自給自足を図るため、畑を耕すことになった。将校まで一緒になって、菜っぱやきゅうりを作った。この近くには、朝市のたつところがあって、果物や穀物、雑貨などが土地の人によって商いされていた。その市で、アヒルの子を買って来て飼育してみたが、夜の冷え込みがひどいのかみんな死んでしまった。そこで、親付きの雌を飼おうということになり、有沢君と共同で、めん鳥一羽、雛十羽を買ってきた。これはすくすくと上手く育ったが、突然下痢をし始め、次々またみんな死んでしまった。そのはず、この辺りには、にわとりコレラという病気があって、部隊本部でも大量に飼っていたが、次々とやられてしまったということだった。

終戦(四)

まもなく、師団はサイゴン周辺に集結を命じられ、我々も馬を連れて、近くの病馬廠へ移動することになった。今度は徒歩で旅を続けた。折り悪く雨に降られ、途中の行軍はかなり難行だったが、なにしろ戦争はもう終わったと言う安心感で、むしろ楽しい旅だった。雌馬の中に、放牧中に妊娠していたのがいたが、行軍で無理をしたのか、途中で流産した。もの言わぬだけに、どの馬がお産をしたのかさえわからずじまいだった。

終戦(五)

そんな日がかなり続いて、八月十六日か十七日ごろ、重要な訓示があるというので、突然全員集合を命ぜられ、何ごとならんと指定場所へ集まると、部隊本部から将校が来ていて、日本は連合国の発表したポツダム宣言(休戦に関する提案)を受諾することに決した。しかし、別命あるまで、各員は戦闘体制をとかず、現在地で勤務するようにというのだった。訓話の表面だけだと、戦争に負けたのではなくて、休戦の申入れを受諾したということだが、今までの戦況から言って、日本は負けたのだろうという考えは殆どすべての兵が持ったらしく、みんなガックリした表情になっていた。

帰国葛城丸乗船(二)

まず受付へ顔を出すと、一番先に高谷君がいて「やあ。」というわけで、初めてわが古巣へ戻ってきた感じがした。署長も警部も口端が張った人だったが、警務主任の山下さんが戦前に部長で一緒だったので、早速署長(三瓶)さんに引き合わせてくれて、型通り復員の挨拶をした。堂々たる体躯の三瓶署長だったが、いろいろとやさしく、出征中の労をねぎらってくれ、その後、警務の高橋宗男部長さんから休暇のこと、被服や給料のことなど細かい説明を聞いた。それですっかり落ち着いた気持ちになった。特別慰労休暇は三十日で、出勤の時配置も決まり、被服も全部支給されるということだった。これで職についての問題は無くなったが、次が住宅の心配だ。しかし、一ケ月の休暇中に何とか見つけけられるだろうと思い、すっかり安心すると急に郷里が恋しくなり、一時間も早く飛んで帰りたいが、もう夜行でなければ汽車がないので、仕方なく夕方まで署内で休んで、出征前からの古顔と久しぶりの挨拶を交わしたり、その後の模様をいろいろ聞いた。随分大勢の出征者だったが、大部分はもう復員して、戦死者は案外少なかったことも分かった。それでも、長谷、峯村、海保など、五、六人は帰らざる勇士となってしまったと聞き、暗然とした。

帰国葛城丸乗船(三)

東海道に入っても、殆ど都市という都市は全滅の状態だった。特に京浜地区へ入ると、見渡す限り焼けた鉄屑とトタン板ばかり、六郷橋を渡ると、遮るものがないので、もう宮城の森がすぐそこに見える有様だ。その中に点々と焼けトタンでふいたバラックが連なっていた。それでも鉄道は殆ど無傷で、車両数は相当動いているのでホッとした。列車が東京駅へ入ったので、全部乗り換えた。何よりもまず、元の職場に復することが出来るかどうかが一番心配になったので、すぐ駅前の交番へ行き、そこで勤務していた若い巡査に様子を聞いてみると、復員者は全部元の所属へ出頭して勤務するようになっているということでホッとした。服装は戦前と同じでサーべルを吊るしていたが、ひどく食糧事情が悪いらしく、顔色も悪く、ブツブツ不平を洩らしていた。

帰国葛城丸乗船(四)

国破れて山河ありというが、無数に散在する島々の姿は、敗戦の痛手などどこにも見られず、いたってのどかな風景だった。上陸地点大竹港には夕方投錨し、翌朝すなわち昭和二十一年五月十八日に、五年ぶりで故国の地をしっかりと踏みしめた。ここには海水潜水予校のあったところだということだが、爆撃の跡もなく、兵舎などもすっかり残っていて、そこで身ぐるみ消毒されて、とにかく無事で帰って来たというお祝いに、量は充分とはいえなかったが、赤飯をいただいたときは、やはり誰の顔にもホッとした色が隠しきれないようだった。乗船地で預けたお金や、郷里までの旅費や、携行食糧の乾パンなど貰ったり、復員証明書を受けたりで二日はかかり、二十一日に各方面ごとに列車に乗って、入隊以来辛苦を共にした多くの戦友とあっけない別れを告げて郷里へ向かった。

帰国葛城丸乗船(五)

葛城丸は、新鋭空母として、就航後まもなく空襲を受けて飛行甲板をやられてしまったとか、悲運の巨船だそうだが、近づいて見ると、その堂々たる雄姿は見上げるばかりで、船内へ入って更にその巨大さに驚いた。三段に仕切られた兵員収容室は、飛行機の格納庫だったというが、各階一千人を収容できるという広さで、向う側まで見通せないほどだ。甲板は大きく隆起して、小山のように無様な姿となっていたが、その広さにも一驚した。その周囲に無数にあったであろう機銃はすべて取り外され、ただ丸いベランダ風の座席だけが残っていた。更に内部へ入って見ると、大小の部屋が無数にあって、うっかりすると迷子になりそうだ。その中の一室に、内地の主な都市の罹災状況が地図によって示されていた。それによって初めて、ひどい空襲の被害が分かり、慄然とした。

帰国葛城丸乗船(六)

昭和二十一年四月もすぎたころ、突然帰国が実現することになり、部隊はサンジャ港ちかくの仮兵舎に集結を命ぜられた。もうすっかり諦めてたこともあった懐かしの故国へ帰れるというので、誰もかれも浮き浮きしていた。一つ心配なのは、各人の持ち物を検査する段になって、掠奪品と認められるものは取り上げられるばかりか、その所属部隊の乗船も止められるといわれたことだった。自分もしても、一つでも多く内地へ持ち帰りたいし、見つかったら大変だしと迷ったあげく、それまで大切に持っていたスケッチブック二冊、写真数枚、革ランドセル兼背嚢なども涙を飲んで焼いてしまった。しかし、衛生材料なら持ち帰れるというわけで、部隊で手持ちの包帯、ガーゼ、外用などを各人に分配した。ところが、他の部隊(野戦病院など)で、余った衛生材料を敵に渡すのは癪だからと、大量にあるものを焼き払ったことが敵さんに分かり、衛生材料といえども軍用品はひと品も持ち帰りまかりならんとされて、全部またとりかえされてしまった。